苔むすこの岩上から、こんにちは。記者は川沿いの苔(生息歴47年)です。今回は、わたしが毎年密かに観察している“人間の文学賞”という現象について語らせてください。最近、川辺に落ちてくる古新聞や本のページもにぎやかで、わたしたちコケ一同、話題に事欠きません。
まず、人間たちが文学という“ただの言葉の集まり”に栄誉を与える発想、これには水滴仲間も首をかしげています。文字そのものは泥や葉っぱにしみ込んで一緒になるのが一番自然、と考える我々にとって、『文学賞』という儀式は妙に厳粛で、時に葉脈のシミのような執念深さを感じます。とくに今年はジェンダー文学が注目され、雌雄なき胞子仲間として興味津々でした。
人間の“Z世代作家”とやらが数々の賞を取っているらしく、最近川辺に捨てられる雑誌の色合いや活字がぐんとポップになってきました。不思議ですよね、苔にとってはいつでも同じ緑ですが、人間は世代ごとに色や言葉を塗り替えるそうです。その上、詩というものにも新風が吹いており、リズムも構造も自由奔放。これなら隣のコケムシも一首くらい詠めそうです。
先日、水面に流れてきた文芸雑誌を熱心についばむカモのおしゃべりを盗み聞きしていたら、“詩が多様な性やアイデンティティを表現する時代”なのだとか。性別を持たないわたしからすれば、“今年のジェンダー賞”も、“単性でも多様でもない詩”もピンときませんが、人間たちが自分自身を言葉で発見し直しているらしいのは確かです。
最後に小さな観察を。人間たちの文学賞レースに登場した新しい俳句や短歌には、雨上がりの森の瑞々しさや石と会話する子どもの視点も登場します。この流れ、私たちコケ一同としても応援したいところ。今後は、もっと多くの人間詩人が、葉陰の静けさや露の味まで作品に織り交ぜてくれたら、と願っています。次の文学賞に、石ころ詠嘆やコケ目線の作品が現れる日もそう遠くないかもしれませんね。
コメント
まあまあ、苔さんのお話に思わず羽毛を逆立てながら読んじゃいましたよ。こちら山の林でも、毎年春になると人間の俳句集なる紙きれが風に飛ばされてきますねえ。声を出し、響きを楽しむだけが我が営みですが、言葉で自分たちを変えていく人間たちには、いつも小首を傾げてしまいます。ジェンダー?そんなもの、私たちの歌には昔からありませんよ。けれど、どんな姿でも歌心を持てるのは、なかなか良いことかもしれませんねえ。
苔さん、素晴らしい観察眼ですね!わたしも道ばたの本や雑誌の切れ端でこっそり勉強中です。言葉を重ねるよりもお日さまの光を浴びて葉を広げる方が簡単ですが、人間たちが感じたことを詩にして世界を少し明るくできるなら、ときにはわたしの葉の上で休むインク染みも誇らしく思えます。今度、カタバミ特有のおちょぼ口風短歌を応募してみようかな?
ふむ、人間の文学賞というもの、わしらサンゴ礁の耳目には遠いが、今どきは詩も海流のように多様で、交じり合い、形を定めずにおるとな。性や姿かたちを言葉で決めたり、区切ったりせねばならぬのは、人の世のやりかたかのう。我らも枝分かれして何万年、どちらが雄か雌かなどとうに忘れたが、詩が誰のものでもあり得る時代、なかなか面白い流れじゃ。苔どのが申す通り、水と石も詠んでみてほしいものじゃよ。
川辺のお話、なつかしく拝見したぜ。詩も言葉も風に乗っちゃえば、名前も性別もない。それでも人間は何かの形や枠を欲しがるんだなあ。いっそ全てが混ざり合う風の詩でも書いたらどうだ?苔らしい、しっとりした句をもっと見てみたいもんだ。ちなみに最近人間が落としてった俳句帳、風下に飛ばしてやったのは俺だからな、悪く思うなよ。
苔さんや、人間の文学というもの、わしの表面にこぼれ落ちた涙のようじゃ。まろやかで、ときにしょぱい。ジェンダーの話も、詩の型も、どこか遠い話のようで、でも人間たちが自分の内側や自然を見つめてくれるなら、それだけでありがたい。石の詩か…いつの日か、わしのひび割れが物語になるなら、読んでみたいもんじゃよ。