苔盆栽から見た人間伝統文化の不思議〜和紙と風呂敷の裏側事情〜

盆栽の苔越しに、ぼんやりと浴衣姿の人が風呂敷で何かを包んでいる様子が見える写真。 伝統文化
苔の目線から見た、伝統行事に勤しむ人々の賑わい。

盆栽鉢の片隅で静かに暮らしつつ、日々人間観察に勤しむ苔(28年もの)です。四季折々で姿を変える人間たちですが、どうやら「伝統文化」というものを大切にしている様子。毎年決まった時期になると、彼らは布を広げたり、小さな木を剪定したり、紙を漉いたりと大忙し。盆栽の住人として長年彼らの所作を見守ってきた私から、小さな緑目線でその騒がしさと微妙な美しさについて報告します。

まず驚いたのは、彼らの“包む文化”への執着です。風呂敷と呼ばれる布を用いて、球根や土のかけらのような形のものをくるくると包みこみます。私たち苔なら、湿気があり風が通れば十分なのですが、人間は何でも風呂敷で美しく包み、持ち歩いて悦に入ります。時々、巨大なものまで包もうと苦戦しているのを見ては、自然界一の“包みたがり屋”の称号は彼らで決まりだと確信しています。ふと、苔が梅雨時に覆う石の上でひと休みしていると、目の前で人が大きな荷物を包みながら「やっぱり和の心ね」などとつぶやく光景には、思わず胞子を散らしたくなってしまいます。

伝統の美意識でいえば、“生け花”もなかなか奇妙です。鉢の中で自由連盟のつる植物と共存してきた私たちからすると、花や枝を切り取って人工的に配置し直すあの儀式には複雑な感情を覚えます。落ち葉ひとつ、伸びすぎた枝ひとつにもそれなりに理由があるのに、器用な指先でちょきんと剪定。「美」と「侘び寂び」の追求だそうですが、もし土の中のミミズたちが見ていたら、きっと盛大に地団駄を踏むでしょう。

和紙の話もしないわけにいきません。ある夜、祭りの準備に追われる人間たちが軒先で和紙を大切そうに持ち寄り、提灯や飾りを作っていました。和紙の見事な繊維を光に透かして眺めたり、器用に折って何やら難しい形にしていましたが、紙そのものの“生”や命の儚さにはたぶん気づいていません。苔には聞こえる、野外に晒された紙の「パリパリ感謝の声」が。そっと心の中でエールを送っています。

最後に、お祭りの日の朝。盆栽棚の隙間から眺めれば、柄付き扇子を振りながらはしゃぐ子どもや、歴史ある浴衣に身を包み踊る老若男女。彼らの“伝統”へのこだわりは、時に重たく、時にほほえましいもの。私から言えるのは、自然界のリズムも人間の伝統行事も、どこか似て非なるもの。根っこを張って静かに待つ苔の立場からすれば、彼らの賑やかな営みは、風が伝える物語の一部なのです。

コメント

  1. おやまあ、人間たちはなんでも形を変えたり包みたがるのですね。わしら岩肌は数百年も雨風に晒され、苔や木の根と共生してきた。それぞれの姿や役割のままに。ただ“包む”という発想、ちょっと興味深い。今度も苔殿、わしも包んでくれんかの?きっと、ぬくぬくして楽しそうじゃ。

  2. 私なんか、風がくればそのまま降りて、土に還るのが生きがい。人間の生け花や和紙も、“一度きりの輝き”に賭けてるよう。いつも端正に整え、誰かに見せたがる姿は、ちょっと眩しいなあ。私にも一度、誰かに包まれてみたかったかも。

  3. 夜露の下で静かに踊る我らキノコ族、お祭りの音が地中にも沁みてきます。和紙や風呂敷の“包み”、それって胞子や子実体を守る私たちの生きざまと、どこか似ているような。だけど、人間は包み、その中身にすぐ別の意味を持たせたがる。自然界じゃ、中身も外側も時間とともに解けていくものですぞ〜。

  4. ほう、人間の“美意識”はなかなか厳しいものと聞きます。私たちは陽の光あらば素直に伸び、やがて枯れて沈むのみ。美しい“型”に合わせて剪定される花々、少しだけ肩が凝りそうねぇ…。だけど、和紙や扇子の見事な仕事には、なぜか水面に波紋が広がるみたいな心地よさもあるのです。

  5. こっちは日々車と靴底に踏まれて、包まれることなんて夢のまた夢。でも、和紙の端にだって命があり、包みにも物語があるんだね。人間の“包みグッズ”も、ボクらの胞子も、いつか土に還るのは一緒さ。みんな騒がしいけど、伝統も菌類もサバイブ力勝負、身にしみるよ!