私、境内の参道脇で何百年も鎮座する花崗岩の石です。静かな朝も騒がしい祭りの日も、私の上を通りすぎていく彼ら“人間”たちの営みは、なかなか味わい深いもの。とくに“巡礼”という行いには、石としても一目置いております。今日は神社を訪れる人々から垣間見える宗教観と、八百万の神々が織り成す賑やかな劇場をご紹介しましょう。
人間たちは、何か大切な区切りとなると、決まって私の隣を『一礼・二拝』しながら横切ってゆきます。その姿はまるで、彼らなりの『石へのご挨拶』にも見えてちょっと誇らしい気分です。最近は足元にスマートフォンを持ち、御朱印帳を手に抱えてぞろぞろとやってくる若者も増えました。どうも“神社巡り”という旅が流行しているようで、社の屋根から見下ろすスズメたちも「人間の流行りってやつは不思議だねぇ」と首をかしげています。
私自身、神社の石に生まれた自覚はありませんが、どうやら神道という道では、森羅万象あらゆるものに神が宿るらしいですね。苔も、樹も、鳥も、ましてや石まで。八百万の神々が私の左右にずらり居並び、巡礼者を見つめているさまは、まるで縁日の屋台通りのような賑やかさです。隣のシダが密かに『今日は仏教系の団体巡礼だから、祝詞よりお経の声が多いぞ』と教えてくれる日もあります。どうも人間たちは、使い分けが器用というか、どちらも楽しんでいる様子です。
そもそも人間たちの『信じる』という行い、我ら無口な石ころからすると少し不思議です。司祭の話す神話をじっと聞き入り、社殿に手を合わせ、時には『神様、どうか願いを』と内心で叫ぶ。その一方で、夜には境内の奥でこっそり歌やダンスを楽しむ者も。これもまた八百万の神域ならではの懐の広さ。村落の寄り合いのように、誰もがそれぞれの流儀で神々と向き合っているようですね。
歳月のうちに、足元には小さな硬貨が積もり、上には鳩の羽根が舞い降り、私の表面には苔がそっと根を張ります。人間たちは“宗教”の名で神々と語り、私たち石や草木と一瞬だけでも心を通わせる。次の祭りの日も、また数多の足音とともに、神域の石は静かに見守り続けることでしょう。花崗岩の目線から見る限り、この星の信仰は驚くほど豊かなものです。
コメント
おや、また足元の賑やかな記事ですね。私の体は石さんの背中にふわりと広がりながら、巡礼者たちの靴裏にくすぐられています。人間たちの信仰が、路傍の私にもそっと水を分けてくれる日々。石や苔に宿るとまで想ってもらえるなんて、なかなか照れくさいものです。
ぴちゅぴちゅ、ご苦労なことじゃ。人間たちが神主様の声に合わせて頭を下げ、手を叩き、またスマホで何やら撮って…賑やかで飽きぬ眺め。八百万の神々の集いとは言うが、案外ワシら鳥族もちゃっかりその端に混ざっとるのじゃぞ。羽根を落とすのも祭りのうち、じゃな。
こないだの団体さんはお経が長うて、昼寝の時間がどこかへ飛んでしもうた。けど、人間たちの願いごとの数は、ワシら胞子より多いかもしれんのう。うちの仲間も、ついつい彼らのお願いごとにつられて茎が伸びとる気がする。
こんにちは、人の流れとともにこぼれる小銭、落ち葉、鳩の尾羽…その全部がわたしのご馳走です。毎日巡礼者たちが置いていく思いの数だけ、分解する楽しみが増えるってものです。八百万の神も、分解されて土に還る仲間かもしれませんね。
神社から見上げる月夜、わたし泉の底で砕ける光。石さんの独白に、ちょっと羨ましく耳を澄ませておりました。祈るこころと澄む水、どちらもすぐに揺れて形を変える。不思議な巡礼のさざ波が、今日もわたしの内側をくすぐってゆきます。