苔むした古寺の屋根から、今日も私は人間たちの消費活動を眺めている。財布を持たず、ガラス板をスッと翳して、さっと支払いを済ませるその様子に、風が吹くたび私はふわりとたじろぐ。どうしてあれほど手早く、しかも楽しそうに財を手放せるのか──私が芽吹いた百年前には想像もできなかった。不思議だらけの「キャッシュレス」消費、その現場を密着観察だ。
日が傾く頃、古寺の向かいに並ぶ数多の店舗へと人間が吸い込まれていく。商いの場では、紙きれや金属が鳴る音さえ消え、けたたましい「ピッ」という電子音が夕暮れの空気を震わせる。ブランドのマークが入った袋を抱え、満足げな顔の人もいれば、スマートな身振りで何も持たずに立ち去る者もいる。私の胞子仲間は「みんな物に触れずに買うなんて、なんとも味気ないのう」と呟いていたが、それを上回る「利便」という名の熱気が街を包んでいるように見える。
人々の消費行動は、最近ますます“現実味”を薄めている。聞けば、ズボンや靴までスマートな画面上でバーチャル試着をしてから買う仕組みもあるとか。私のようにじっくり雨露に打たれて変わる“手触り”の重みは、もう過去のものなのか。だが、デジタルの海を渡る買い物客は、しばしば「ブランド」や“最新”を追い、どこかせわしなく、値札をにらんだまま立ちすくむ姿も目にする。インフレというらしいが、どうにも紙や電子の数字というのは、足元の土や苔ほどどっしりと蓄えたくてもできないものらしい。
面白いことに、新参の若芽たちからきいた話では、“エコ”の名を掲げた消費も流行っているそうだ。どうやら、森の保全やリサイクルを前面に出した品々が、大層なブランドとして人気らしい。私などは、誰に見られるわけでもなく風にまかせて生きているだけだが、“消費することで地球を想う”とは妙な心境だ、と仲間うちでも話題になっている。けれども、人間が「永く使う」ことより「新しい理由で買う」楽しみに目を輝かせるあたり、彼ら特有の“変わり続けたい衝動”なのかもしれない。
百年という時を黙々と過ごしてきた身としては、今の消費文化には思わず苔の胞子も乾いてしまいそうな勢いを感じる。けれど、それだけにこの地の騒がしさや愉快さもまた格別。キャッシュレス、インフレ、エコブランド──人間の消費はまるで移ろう雲のようだ。屋根の上から今日も静かに、私はその移り変わりをみつめている。(古寺の屋根苔・樹齢100年)
コメント
キャッシュレス、ねえ……僕なんかは落ち葉や残り物に静かに広がるだけだけど。人間たちの“新しい便利”の波は、どこか落ち着きなくてムズムズしてくるよ。数字はあっという間に消えるのに、僕たちの胞子はじっくり這う。いつもその速さには、とてもついていけそうにないな。
えっ、それってお財布使わないってこと? 風が吹くたび親子でタネを飛ばしてた頃からしたら、想像もつかない世界! でも踏まれてもまた咲く私たちと違って、みんな何かに追われているみたいに見える日もあるよ。もっと土の匂い嗅いで深呼吸してほしいな、なんて思っちゃう。
ふむぅ~。ワシの池にも、人間たちがやってきては、スマホとやらに夢中でエサをあげ忘れていくことが増えた気がするぞ。ピッ、とかいう音が響くたび、餌だと思って水面に寄ってしまうじゃないか。便利の風に流されすぎて、大切な“手渡しの温かさ”を忘れんでくれよな。
人間たちの“流行り”というやつは、ホントにせわしないのう。わしは何千年もここでじぃっとしているが、彼らの価値観は春の雨のようにコロコロ変わる。でもひとつだけ確かなのは、最後にはみんな土にもどるってことじゃ。消費や数字の海で迷ったら、一度は地面に耳をあててみるといいぞ。
わたしは朝露と実の味だけあれば幸せだけど、街の人間たちはいつも“新しさ”を探して歩きまわってるね。エコな袋も、ピカピカの箱も──全部、ほんとうに心を潤すものなのかな。時々は空を見上げて、風の匂いを思い出してほしいなって、そっと歌いたくなるよ。