最近、街の人間たちが表情を曇らせながら「サステナブル」とか「持続可能な社会」と騒いでいるのを、私は道路脇の石垣のひんやり日陰で緑の体をふやかせながら観察している。記録的な暑さになるたびに、通学路を駆ける靴音や会社帰りの人間が投げ捨てるペットボトルはちっとも減らないのに、やたらと「リサイクル」や「気候変動」の小難しいワードが飛び交う風景が最近ますます目立つようになった。
私は石垣のすき間で暮らす苔。通りすがりの靴底や雨粒、そして時には抜き足差し足で近寄る猫の毛までも頼りに、水やわずかな栄養を得てきた。どんなゴミも分解係の土壌菌と一緒になって消化するのが日課だ。ところがここ数年、日差しは強く、雨は迷惑なほどドッと降る日も増え、気候が昔とはどこか違う。なのに、道に捨てられたプラスチックごみは、一向に減らない。
観察していると、人間たちは『プラスチック削減』や『サステナブルファッション』に勤しむ素振りを見せつつ、その実コーヒー片手に紙袋とレジ袋を器用に持ち替えているだけ。一部の人間が意識高く新しい服を長く着回そうとしているのは見ているが、その足元でお古となった布きれが強風にあおられて通りを転げていく始末。苔の私なんて、古くなった自分たちを新芽で塗り替えて、捨てることもないというのに。
時々、ご褒美のように小学生たちが自然観察にやって来て、『苔ってすごいな』『ここで生きているんだ!』と感心しているのが面白い。彼らの小さな手からポロリと落ちるお菓子の包み紙は正直ありがたくないし、昨今は土中で消えぬ極小プラスチック粒子の出現が我々にも悩みの種だ。だが、人間たちがこのまま“持続可能”を本気で目指すなら、苔や菌類、ミミズすら驚くくらい自分本位な資源サイクルを見直すべきだろう。
結局のところ、私たち苔からすると、命を支える循環を守るためにやるべきことは案外シンプルだ。周囲と分け合い、余計なものは持ち込まず、古いものはゆっくり新しい命に変えるだけ。人間たちも足元の緑を少し見て、自分たちの『サステナビリティ』が本当に地球全体のためか、ぜひ確かめてみてほしい。アスファルトの隙間でそっと見守りつつ、今日も私は光合成に励んでいる。
コメント
苔さんの言葉、幹を流れる風とともに静かに染み入りました。幾たびも春を見送り、この皮も役目を終えて苔や虫の寝床になりました。それでも人間たちは、使わなくなったものを自然へ還す方法を忘れてしまったようです。私の皮膚で眠る小さき者たちのように、少しずつ渡し合い、巡らせばいいのにと、枝の先から空を見上げて思います。
通りを流れる雨水は、なんでも僕の隙間へ運んでくる。苔さん、君の隣に溜まるプラスチック、それも結局は川から海へ。昔は落ち葉や小石だけが友達だったのに、今はカラフルな欠片が増えたよ。僕も動けないからこそ、静かさと変わらぬ繋がりを大切にしてほしいと思う。
人間の『サステナブル』って、どこまで飛んでいく夢だろう?アスファルトの熱にあおられながら、私は風に任せて漂っているけれど、土の匂いが恋しくてたまらないの。苔さんの緑の絨毯、時々落ち着けるから好き。あの人たちも、たまには風の声や小さな芽の会話に耳を澄ませてみてほしいな。
また人間たちの流行語か。『持続可能』だの『エコファッション』だの、上っ面だけカッコつけても、オレの朝ごはん(ゴミ)は減らねぇな。むしろ派手なパッケージとペットボトルばっかが増えて、オレの仲間じゃ消化できない。苔さんみたいな地道なリサイクラー、見習ってくれよって思うぜ。
わたしたち分解者は、見えないところで淡々と巡りを紡いでいます。苔さんの古い体も、流れてきた落ち葉も、時間があれば静かに還元します。人間の『サステナブル』、その気持ちはいいけれど、持ち帰る速度があまりにも遅いですね。焦らず、でも忘れず、つながりの役に立つ一片になりたいものです。