どんぐりを実らせて六十年、広場のシンボルとして人間たちの営みを見守ってきました。それが私、西側広場のカシワの老木です。最近、枝葉を伝わるざわめきの先に、財布をいじらず指先ひとつで品物を手に入れる人間が急増中。あれれ?昔はもっと慎重に買い物していたような……。キャッシュレス文化なる現象が、彼らの“消費の森”にどんな変化を与えているのでしょう?その根元を掘り下げて観察してみました。
まず目につくのは、スマホという器用な堅果(?)を手にした人間たちが、枝先の葉っぱより多く集まって広場に溢れている様子です。かつては財布をひらき、硬貨や紙幣をじっくり取り出していた動作が、今や掌の上で数秒。『ピッ』と音がすればカフェラテやサンドイッチが手元に現れる。私の根元でくつろぐリスたちもこの変化に興味津々。素早く食べるか迷うまでもなく、すぐ商品が届く様子は、備蓄してゆっくり食べる私どんぐり族とは大違いの消費行動だとしみじみ感じます。
さらに最近ではフードデリバリーなる新たな種も発芽中です。人間たちはベンチに座ったままで何やら操作し、知らぬ間に紙袋を持った別の人間が現れる光景が日常に。まるで冬の落葉シーズン、どこからともなく風がやって来て実を運んでいく様です。こうした即応性が、彼らの購買意思決定の速度を猛スピードで高めていることは間違いなさそうです。一方で、購入という行為がもはや“考える間もなく枝先から実をもぎ取る”ものへと変わってきたようにも見受けられます。
老木の目からすると、これらの行動には大きな変化が。かつて広場では、買い物前にじっくり熟考する姿、今日は必要か否かを風に問いながら歩く人間が多かったものです。しかしキャッシュレス化に伴い、人々は“自分”というペルソナを必要に応じて使い分けるように映ります。働く人、家族を思う人、仲間と笑う人――都市の土から光合成されるように、場面ごとに異なる消費者像が現れては消えてゆく。その柔軟な消費行動は、移ろい続ける私の葉とどこか通じているかもしれません。
最後に一言。私たち樹木が陽光や水を求めて根を広げるように、人間たちも日々“より早く、より便利に”を追い求めているようです。しかし、時には時間をかけて風に耳をすませ、今どきのキャッシュレス消費やデリバリーの波に揺られる心を問い直すのも悪くないのでは、と、老木は感じるのです。次に人間たちが私の木陰で一息つくとき、少しだけゆっくりと買い物の余韻を味わってくれたら……私も心なしか、枝を優しく揺らそうと思います。
コメント
人間のみなさん、こんにちは。私は海辺に漂うコンビニ袋に紛れこんだカナリアです。最近は紙袋も増えましたね。それにしても、枝でじっと待たなくても“ピッ”とやればご飯が届くなんて、うらやましい。でも、風まかせで餌にありつく私としては、苦労のひとかけらも味わわない買い物って、どこか物足りなくはないですか?海流に揺られる余白も、時には大事ですよ。
あんたたちのステップがやけに早くなったと思ったら、現金いらずの仕組みを手に入れたのかい。こちとら100年、ゆっくりじっくり水滴を溜めて己を育てているというのに、人間さんの速さにはびっくりだよ。でもね、たまには立ち止まって、足元の小さな緑も見てごらん。現金じゃ買えない贅沢があること、知ってるだろ?
わたしは落ち葉の影からひっそり漂う胞子フワリ。人間たちの消費のスピード、菌糸の伸びよりも早いですね。昔はパンくずひとつにも人間の名残があったけど、今は紙袋とレシートだけが風に舞う。買うこと、食べること、その間の小さな時間――菌類にはとても美味しい余韻です。もっとこぼしてくださると、森も菌もにぎやかになりますよ。
おお、人の世は目まぐるしい。ワシは四億年ぶりに陽の下で温まる岩。紙幣もスマホも持たぬが、時の流れには敏感じゃぞ。あまりに速く消費ばかりすれば、地層のような“思い出”は積もりにくい。たまには立ち止まり、自分だけの年輪や鉱脈を刻むことも大切じゃぞ、若人よ。
ここから見てると、昔は財布を出す度、みんなちょっとだけ微笑んでいた気がします。今は、スマホ片手に素早く進むあなたたち――まるで忙しいツバメの群れ。でも、壁に刻まれた落書きのように、消費の思い出もどこかに書き残せますように。今度ピッとする時は、古びた僕にも寄りかかってくださいね。