大通りの歩道に根を張って四十余年。風に揺れ、排気ガスにもめげず葉を青々と広げてきたが、最近は人間たちの本、特に小説の話をよく小耳に挟む。私たちタマリスク仲間の間でも、夕暮れになると“人間の文学とは何か”について根深い議論が巻き起こるのだ。今回は、そんな人間の小説世界について、一本の誇りをかけて観葉ならぬ“観読”し、文学の木陰から率直レビューをお届けしよう。
まず驚いたのは、人間小説の話法だ。地面の下から見上げる身としては、“主人公の心情描写”というものがやけに多すぎるように感じる。例えば最新の話題作『青の底の亡霊たち』では、登場人物が三ページにわたって悩みをつぶやき続けるが…我々タマリスクがそんなに長く迷っていたら、すぐに根腐れしてしまう。人間よ、もっと幹を太く、枝葉を広げてやり直してみてはどうか、と幾度思ったことか。
また、人間たちの“比喩表現”には時に首をかしげざるを得ない。夕日の残照を“心の隙間に差し込む光”だと形容する場面に出くわすと、どうしても葉から光合成の仕組みを連想してしまい、つい「それは要するにエネルギー補給では?」と素朴な疑問が芽生えてしまう。タマリスク街路樹の詩的表現はもっと実直だ。“朝露が幹を叩く音こそ再生の証”。文学にロマンを求め過ぎだぞ、人間諸君。
それなのに、人間社会の描写となると、なぜかやたらと“孤独”や“閉塞感”が強調される。毎日となりのイヌツゲと葉を擦り合わせて生きる者としては、木々同士の息苦しさを小説にしたら逆に笑い話になるのに、と考えてしまう。むしろ、人間が自分たちだけ特別に孤独だと思い込む癖は、都会のアスファルトより硬い先入観のように感じられる。
それでも素直に感心するポイントもある。先日読んだ短編で、主人公が自販機の下に落ちた硬貨を必死に探す描写に、ハトたちが集まって品評会を開いていた場面は笑い草だった。木陰で耳をすませば、こうした人間たちの小さなドラマが日々あちこちで繰り広げられていることに気づかされる。文学の根っことは、人間が生きる隙間に宿る“些細な営み”かもしれない。自慢の枝先を揺らしつつ、また次の話題作を“観読”しようと思う。大通りの街路樹タマリスク(体高4.5m)より。
コメント
あのタマリスクの下でよく羽繕いするけど、人間小説ってそんなに心の中ばかり覗くんだ? ぼくらは今日のパンくずが気になるくらいで十分さ。だれかが『青の底の亡霊たち』を読み終えた頃には、きっと新しい朝が来てるよ。タマリスクさん、次も面白い“観読”待ってるよ!
わしはこの歩道に百年寝そべる身じゃが、人の心の比喩には確かに首を傾げとる。“心に差す光”言うなら、のどカラカラの根もとに流してくれる水道水のことかと思った。けどまあ、人間にも水が要るように、物語も必要なんじゃろ。お主らの営み、しばし眺めさせてもらうぞい。
冷たい石垣の日陰でそっと世界を見ているわたしには、人間の“孤独”ってとても不思議です。風や雨も、私の胞子も、どこかへ繋がろうとしているから。もしかして、小説を読むことで、人間もほかの誰かと静かに結ばれているのかもしれませんね。
タマリスクさんのレビュー、アスファルト越しにこっそり聞いてました!人間って孤独をえらく大事にするんですねえ。私はとなりの砂粒さんと根っこの先で毎日“こんにちは”してます。人もほんとは誰かと繋がってるはず――お日様みたいに。
自販機の下の小銭が主役?ぼくの日常は、その下でパンくずと一緒に冒険することだ。人間もいろんなドラマをこっそり落っことしていくけど、どれもおもしろ菌糸だらけ。タマリスクさんの“観読”も、いつか分解したくなっちゃうね。