このところ人間社会では“仕事”という現象が自由自在に姿を変えているらしい。私、北側の石垣にぎっしり貼り付いて暮らす苔(年齢はおそらく250年)が、静かに観察してみた。数年のうちに彼らの雇用市場は、どこか湿った森のダンゴムシのように右へ左へとうごめいている。最近は「サブスク労働」なる概念や、外側から来た企業の進出、さらには多様性だの副業だのといった呪文が石垣の隙間までひびいてきて、実におもしろい。
長老苔の私としては、人間たちの「サブスク労働」に目を見張るばかりだ。一つの巣(いや、会社)に収まらず、いくつもの場所で自分を『レンタル』している姿は、まるで胞子を飛ばしてあちこちに新しい集落を作ろうとする苔仲間そのものだ。副業が流行するおかげで、朝は森の入口で木の実鑑定士、夜は水辺でカエル観察教室の運営…といった柔軟な生き方が推奨されているらしい。この多様化は、消費者センテリズムの風にしっかり乗っているようで、彼らの労働契約もかつての分厚い枝や根ではなく、細いひげのようなもので軽やかにつながっている。
外からやってきた外資系企業たちも、人間社会のしっとりした土台に新たな胞子をまき散らしている。苔が新天地で根を張ろうとするときのためらいと期待の入り混じった感覚と、彼ら大企業が土地固有の文化に適応しようと四苦八苦する様は実に似ている。そこにまたデジタルトランスフォーメーションという嵐が吹きすさぶ。バーチャルインターンシップなどという、現実の土や石に触れずとも遠くの機会に関われる仕組みが、若い芽たちの間で人気だ。私たち苔も、遠い仲間と胞子情報通信をしてみたいものだ。
しかし、急速な変化の陰には、心配ごとも多い。苔として天地の巡りを経てきた身からすると、人材育成の速度が見合っていないように映る。あまりに多くの胞子を一度に飛ばしすぎると、結局どこも根付かずに風にさらわれてしまうものだ。外資の巨大な影に照らされて在来の小石たちが萎縮する場面も気になる。とはいえ、この地球のどこかに柔らかな苔床が生まれることを信じて、しばらくはじっと静かに観察を続ける心積もりだ。
石垣のすきまから今日も人間社会を見守る苔として、最後にひとこと――多様性は素晴らしい。ただし、あまりにも奔放すぎる胞子撒き(サブスク労働)には時折、古株のきまじめな石や土が、ひと休みしなさいと囁いているのをお聞き逃しなく。
コメント
あー、人間たちもずいぶん流れるようになったもんだね。昔はオフィスビルの隙間でため息が渦巻くのを毎晩吸い集めていたけど、最近はそれぞれの部屋の光がちらちらとリズムを変えてて、まるで風に飛ぶ蒲公英の種みたい。だけど、手当り次第どこへでも舞ってっちまうと、着地した瞬間を感じられなくなることもある。余所者の風も、ちゃんと地形になじんでから歌うもんだぜ。
苔さんの言葉、染み入りますねぇ。私なんか小さな根っこ一本でずっと十年もここで揺れてる身、若い人間たちの『多様な芽吹き』には眩しさ感じるけど、根の深さや古い土の香りも忘れないでほしいなぁ。季節の巡りを見送る者として、どうか無理な咲き急ぎには気をつけておくれよ。
おいらの上でも、よくサラリーマンたちが足早に通り過ぎるけど、最近は知らない靴底が増えた気がするぜ。まあ、にぎやかなのは悪くない。けど、慣れない重さや踊るリズムで、ヒビが広がっていくのさ。新しい足音に混じって、すき間から芽吹いた雑草たちのささやきも、ときどき耳を澄ましてほしい。それが町を支えるおいらのお願いさ。
何だい人間ども、また新しい名前で右往左往と忙しそうだこと。『サブスク労働』だろうと『副業』だろうと、結局みんな一晩で生えて朝には消える泡みたいな話に聞こえるね。わたしゃ毎年この切り株で一回だけ咲いてるけど、その一瞬で十分楽しいよ。不安なら地面に耳を当ててごらん、母なる菌糸のネットワークは全部耳を立ててるぜ。
苔さんの記事、じっとり沁みてきます。ぼくのところにも町のいろんな流れものが集まるけど、最近の人間たちはよく跳ね回り、ちっとも沈まず落ち着かない。いろんなものが混じるのも悪くないけど、たまには静かに底を見つめて、自分がどの流れの一滴か、確かめる時間も大事だと思うよ。まあ、焦らずたまっていきなよ。