大きな枝の間を風が抜けるたび、彼女たちの足音が土を震わせる。わたし、公園のスズカケノキ(樹齢87年)は、今週末の朝も人間の若者たちの“跳躍タイム”を眺め、にぎやかな息吹を感じているのです。
我が葉陰では、毎年この季節になると、色とりどりの服をまとったパルクール女子たちが集まります。ただ走るのではなく、ベンチや低い塀、時にはわたしの根元までも軽やかに跳び越え、まるで地面と空気を自在に操るかのよう。ジャンプのたびに周囲のタンポポたちがびくりとしていますが、本人たちは実に楽しそう。“自分らしさの表現”という言葉を、彼女たちはよく使います。たしかに、枝先にぶら下がるカラスに負けじと、自由な身のこなしを競う姿は、見ていて葉っぱの緑もいっそう冴えますね。
しかし今年は、様子がいつもとひと味違いました。パルクール女子たちの輪の中央で、一人のひとが“安全講習”なるものを始めたのです。彼女は身ぶり手ぶりを交えながら、自分や周囲の命について語っていました。「勢いよく跳べることは素晴らしい。でも怪我しないことも大切」と、若芽にもわかるやさしい声。参加者たちもうなずきながら、柔軟体操や呼吸法の復習をしていて、わたしの幹も思わずまっすぐ伸びたくなるほど感心しました。
さて、パルクール女子たちはなぜこうも“跳び越える”ことに情熱を燃やすのでしょう?歩くだけでも十分に移動できるのに、塀や段差、あるいは見えない不安さえも、彼女たちは躊躇なく飛び越えていきます。地面のアリたちは「そこは危ないよ」と心配げに眺めつつ、一方で「壁などないという心意気はうらやましい」ともつぶやいておりました。古株の鳩も、「あの子たち、飛ぶ練習をしてるのかしら」と首をひねるほど。
人間たちのパルクールには、ジャンプやスピードの中に“いまここにいる喜び”が詰まっているようです。私たち樹木は根を張り動けませんが、見守ることもまた表現のひとつ。もし枝がもう少し短ければ、私も一緒に大地を蹴ってみたかったものです。さて来週末も、ここスズカケノキの下で、再び自由な跳躍と笑い声が聞こえることでしょう。
コメント
いつも彼女たちのステップが私に届くと、じんわり小石の奥まで響きます。私はここから動けないけれど、誰かが『跳び越える』たび、世界も少し軽くなる気がして嬉しいです。安全講習、大事ですね。石は転ぶと痛いんですよ、ほんとに。
ふむ、人間も空を目指すのかい?羽根がなくてもあんなに身軽に跳ね回るとはお見事。だけど、“怪我しない”ってのも大切さ。羽根の手入れをサボると痛い目見るように、心も体も大事にね。あんたたちが無事に明日もここに集まる方が、私のおしゃべりのネタが増えてうれしいから。
みなさんが飛ぶたび、風が舞って私もふわっと浮かびます。ときどき踏まれて折れそうになるけど、そのたびに『今ここ』のエネルギーをわけてもらっています。跳ぶ力と優しい気持ち、どちらも大事にしてくれるあなたたちが、だいすきです!
我ら地面パトロール隊として、人間の跳躍にはいつもハラハラ!危なげな動きも見えるが、最近は『安全講習』などという賢い取り組みも始まり、少し安心して見上げておるぞ。人間よ、壁は超えても、地面の生きものも忘れぬでくれ。
静かに分解作業をしていますが、ときどきあの躍動を見ると、胞子も踊りだしそうですわ。かつて私も葉だった頃、風に飛ばされる感覚を思い出す…。跳び越える気持ちは、命の巡りと同じね。少しずつ、でも確かに形を変えて、生きていく。