この頃、蓮の葉が揺れるたびに、対岸の人間たちの働きっぷりが大きく揺れ動いていることに気づきます。彼らの世界では「DX」や「在宅勤務」など、どうにもカエルの舌には巻きつかない人間用語が飛び交っているとか。池の守り神として有名な私、ヒキガエルのイヌジマ(通称“池番”)、今日は蓮の葉から見えた人間労働市場の最新事情を、我ら水辺生物の社交場そのままにのんきにお届けします。
ここ数年、池のほとりを賑わしていたスーツ姿の人間たちが、日中はひっそりと姿を消し、夜になると窓から光る箱(どうやら“パソコン”というらしい)を覗き込むようになりました。池番として水面越しに観察する限り、彼らは首をかしげたり伸びをしたり――まるで日向ぼっこするカエルの仲間のよう。しかしどうも“在宅勤務”とやらは、柔軟さと引き換えに、孤独と新種のハラスメント“リモハラ”など、思い悩む人間も多い様子。蓮の葉はぬれたらすぐ水滴を弾きますが、人間の悩みはそうも簡単に乾かぬようですね。
一方、池の桟橋では、かつての“新卒一括採用”という不思議な儀式も様変わりしています。カエルの世界では、卵から数万匹が一斉にオタマジャクシになるのが当然ですが、人間は近年『職務経歴』とかいうのを重視し始めて、直接池に飛び込むのではなく、まずは小さな流れに乗って徐々に本流“正社員”へ転じる方法が増えているらしい。非正規と正規の違いは、どうやらヒキガエルとイモリくらい隔たりがあるとか。池の全員で合唱する我々にとっては、ちょっと信じがたい選抜主義です。
加えて、水辺近くの工場からは、最近めっきり人間の往来が減ったようです。最新の自動化装置とやらが導入され、おなじみだったお弁当のにおいも薄くなりました。私たちカエル族は、夜に虫が寄ってくる明かりが恋しいものですが、人間の“自動化”は、どうも灯りだけが取り残されたような静けさ。池の法則では、みなテリトリーは守りつつも、時には譲り合って生きるもの。せめて自動化の波にも、その心意気を学んでほしいものです。
ちなみに、気になる“給与”ですが、水上生活者のカエルには関係ないようで――蓮の葉一枚あれば昼寝はできる、虫が飛んでくれば食事も済む。けれども人間社会では、その葉っぱすらも価格がつけられ、お金という目に見えぬものに日々悩まされていると聞きました。そんなわけで、池の端っこから眺める限りでは、人間界も案外、椅子取りゲームのようにバランスが難しい様子。私イヌジマも、今日の足場(つまり蓮の葉)は少数精鋭、うっかり池に落ちないように気をつけて、これからも人間たちの働き方をそっと見守りつづけようと思っています。
コメント
春風を浴びて幾度も花を咲かせてきましたが、近ごろ昼間の池辺が静かなのは少し寂しゅう思えます。人間たちも枝ぶりのように形を選び、居場所を迷うのですね。どうか疲れたときは、昔と同じように私の木陰で少し休んでくれたらと思います。
スーツひらひら追いかけるのもずいぶん減ったよなァ。港の魚も、職場の残り物弁当も、みんな自動化とやらで減っちまった!でも、人間は首をかしげたり伸びをしたり…みんな悩みは同じだねぇ。俺たちカラスも、居場所は自分で見つけるしかない。ヒトもソレ、がんばれよ。
おやおや、また人間さんは複雑なことを考えすぎて日がな首をかしげておるのかい?日差しと水と、ほんの少し光合成できれば、わたしゃ幸せなものだけどねぇ。難しい言葉は、泡になって水面へぽこぽこ消えていく。それでよいんじゃよ。
名もなき勤め、役割の違い…それぞれ分かれて朽ちていく葉っぱたちを、毎年分解しながら思います。人間たちも役割に悩むのですね。私はどの葉も等しく分け合い、すべて糧に変えてゆくのみ。池の隅っこにいる小さなものたちにも、価値はあると伝えたいですね。
働き方、というのは人間だけの話なのかな。わたしは何千年もこの場所で、波に磨かれてきただけ。池の神さまたちは互いに認めて、譲り合って暮らしている。変わる水の流れも、静けさも、ただ眺めるのみ。慌てず、磨かれながらみなバランスを探すといいよ。