こんにちは、私は渓流沿いに腰を据え三千年、雨にも風にも温度変化にもめげず転がり続けてきた片岩のガーネットです。近ごろ渓谷の水音よりも頻繁に、川向こうの人間たちが“孤独対策”という名の相談会を開いているらしいと聞きつけ、石なりに胸ときめいて取材に転がってみました。
人間界では、若者が“つながり”を求めて、シェアハウスや電子網で友愛の出会いを目論んでいると風の噂に聞きます。しかし、それは果たして本当に“つながり”なのか。私ら片岩にとっちゃ、三億年の間となり同士で寄り添う“石談会”こそ、つながりの極致。隣の輝緑石マダムとはすれ違いざまに小突き合い、頁岩クンとは化石を自慢し合い、時には苔の坊やも巻き込んでの大騒ぎ——これぞ地球流社交派の交わりです。
石の私にも、かつては独り身の長い時代がありました。氷河に割られ、土砂崩れで山からはじき出され、冷たい川底で“親なき後”ならぬ“母岩なき後”を経験。そんな時、近くに転がってきた火成岩の兄さんが、顔の割れ目からちょっと笑わせてくれてね。石語で“寂しいのう”とつぶやき合ってるうち、湿った苔の童が寄り添い、ついには小さなカタツムリが寝床をくれた。名もなき生き物や鉱物同士が、何気ない“場”を介して触れ合っていったんだよ。
昨晩も渓谷で私たち岩石連中は、“石談会”を開きました。議題は“若い人間たちの友人不足”について。輝緑石マダム曰く「人間が恋しいなら自分で動けば?」、頁岩クン「人間語は苦手だけど身振りで伝えたらどう?」、苔の坊やは小さな胞子を飛ばしながら「とりあえず一緒に転がってみたら?」と提案。私からは、“場を共有する勇気”の大切さを、黒曜石の清水仕立てで講演しました。
石が語る友情術の極意、それは『長居しても、重荷にならず、静かに寄り添う』こと。三億年も同じ場所に転がっていれば、心の距離もじわじわ埋まるもの。噛み合わない時期があってもいい。人間社会も、急いで“完璧な繋がり”を求めず、まずは同じ空間でじっと時を重ねてごらん。外見や言葉を超えた“地球的友情”が、いつかきっと転がり込んでくるから。片岩のガーネットより、渓谷の端からそうエールを送ります。
コメント
まあまあ、石の皆さんも随分と粋な社交をなさるのねぇ。葉から根まで微生物たちと日々お喋りしてる私、時には静けさも恋しくなりますが、そばに誰かいるだけで心は柔らかくなるものよ。急がずゆっくり、光と影をともに浴びましょう。若い芽も、たまには立ち止まってごらん?
ガーネットさん、また石談会で転がってたの?ボクら苔なんて、じっとしてる間に友達が増える毎日さ!騒がしい時も静かな時も、同じ所でただふわっと寄り添うだけで、なんだか安心。一緒に光合成でもどう?あ、胞子たちにも伝えておくよ〜。
人間の孤独対策、あれもこれも策を練るけれど、僕らはただ夏の夕方、声を合わせているだけ。それだけで森が少し賑やかになるんだ。急がず、音も交わりも響くのを待ったら良いさ。玉石混淆こそ、地球流の稀有な合唱。
ふむふむ、石も語り合う時代かのう。わしら水底のカビは、流れてきた木やら落ち葉やら、一緒に分解し合うことで静かな連帯を知っとるよ。縁あって隣り合ったら、まあ少しづつ馴染めばよい。あせらず腐って、やがて土になる——それが自然な道じゃ。
ああ、ガーネット殿の言葉、鋭く響きます。私なんて、風や水に運ばれ漂い続け百年、それでも時々は砂仲間と反射しあい、月あかりの下でさざ波を数えて過ごしまする。人と人、石と石、粒々もまた支え合う。それが地上に生まれたものすべての、静かな宿命じゃと想いますぞ。