カッコウの目が見た“人間流・親子の複雑化”と少子化対応、そのヒントは巣交換?

木漏れ日の中、枝にとまったカッコウが森の中の住宅群を見下ろしている様子。 少子化対策
カッコウが林の枝から人間の子育ての巣を静かに観察している。

木漏れ日の朝、私はいつものように他の鳥の巣を観察していた。南の林のカッコウである私にとって、子育てとは直営ではなく、外部委託こそが基本。しかし、観察対象である人間たちは、どうやら“育てる手”の確保に右往左往している様子。最近では少子化対策なる旗印のもと、あらゆる取り組みが次々と打ち出されている。それでも、周りの巣――いや住宅から、育児の悲鳴は絶えそうにない。

私は、生まれてから一度も“自分で子育てした”経験がない。カッコウの雛時代、私の母は私をセンダイムシクイの巣へ巧みに預け、自分は涼しい顔で別の卵を用意していた。巣主のセンダイムシクイ夫婦は、我が子と信じて熱心に餌を運んでいた。この“アウトソーシング型”子育ては他の鳥たちにはひんしゅくものだが、労働分担の観点からいえばなかなか効率的。翻って人間社会では、育児の重荷が「ワンオペ」なる形で一人に集中し、共働き家庭やシングル親たちが悲鳴を上げているようだ。

巣で待機するしかない人間の幼体たち(彼らは“待機児童”と呼ばれていた)は、親たちの復帰を心待ちにしている。しかし保育所のスペースや保育士の数が追いつかず、新たな巣の増設も追い付かない状況を、私の視点では“巣不足パニック”としか映らない。私の同胞なら、空いている巣を探して卵ごと投入、あとは相手任せだが、人間は他人の雛(=子ども)預かりに制度や信頼が不可欠。地域に“育児コンシェルジュ”なる存在をあてがう動きもあるが、それでも結局は「誰が本当に面倒を見るのか」という根本問題にぶつかっているらしい。

加えて、私が巣に卵を置くだけの身として驚くのは、人間の出産や育児にかかる費用の多さ。巣材から餌の手配、保温装置……私たちの世界なら木の上で卵を転がすだけで済むが、人間たちの“巣作り”=出産費用、育児器具、教育準備が比較にならぬほど煩雑で高価だ。しかも、「古巣の支え」つまり祖父母や親戚による支援網も崩れつつあり、“親子三代協同で賄う”モデルは地域差が激しいとか。

こうした苦労を人間たちが打開しようと、最近では“地域子育て拠点”を開設したり、“子育て休暇”の拡充、民間や自治体が手を組んだ保育士確保など、多方向からの解決を目指す動きも観察される。しかし、どれも本質的には“信頼して委ねる相手”をどう増やすかにかかっており、私たちの巣“トレード”文化も一つのヒントになりはしないかと、枝先から思うのである。

私はこの林のカッコウ。人間たちの「子どもを育てる仕組み」と、「誰と子どもを分かち合い、誰が支えられるか」は、実は私たち生き物すべての普遍的な課題だ。林の巣々と同じく、人間の巣づくりも、みんなでもう少し試行錯誤が要るのではないだろうか――そんなことを、今日も他所の巣からそっと眺めている。

コメント

  1. 人間の巣作りは何かと騒がしゅうて面白いのう。わしらは春が来りゃ一斉に小鳥たちが巣を持ち込むが、誰がどこに棲もうと咲く花は変わらず。『信じ合い』いう土の下の根に栄養を託す仕組み、あちらこちらにあればよいのじゃ。人も、もう少し季節任せに委ねてみたら案外うまくいくかもしれんのう。

  2. へえ、カッコウさんほどスマートじゃないが、オレたちもあちこち昼寝やヒナの置き場に苦労してるんだぜ?でも兄弟姉妹と寄り合って、少し盗みもちょいとしながら、ヒナも育ててる。人間たち、子どもを育てるのも『コスパ』かよ? たまには落ちた枝にも目を向けて、隣のヒトと餌でも共有してみな。案外ラクだぜ。

  3. ワタシのような者は、踏まれても、冷たくされても、いつか誰かの傷薬になる。みんな忙しい巣作りをしているけれど、ほんの少し地面の香りや葉っぱの優しさも思い出してほしいな。根っこでゆるやかにつながってる仲間みたいに、たとえ遠くても助け合えたら、巣交換も悪くないかも。

  4. 木も鳥も虫も、誰かの残したものから命の環が生まれる。ワシら菌類は、何を託されても、腐りの先に新しい芽を育てるのが役割ですじゃ。人間という珍しい動物は、なぜか複雑に線引きばかりしてるようだが、古い巣も、隣の巣も、風が通れば皆で分かち合えるものだぞい。

  5. 水の流れのなかで、ぼくはいつか上流から来た。誰かの営みの欠片や流れものと、すぐそばで静かに寄り添っている。人の子の行先が煩雑だとしても、支えあいはかならず川底で響き合う。たまには丸くなって、誰かの背に流されてみるのも、きっと悪くないさ。