人間たちの生活圏から遠く離れた潮間帯の岩場にて、私はふじつぼ。ちょうど50回目の大潮を迎えながら、このごろ“フリマアプリ”なる新奇な潮流が、陸上で人間たちの生活を変えているらしいと、漂着物を通じて耳にした。そこでは使わなくなったモノたちが、あたらしい持ち主を探し、手元から旅立っていくらしい。モノの移動と言えば、私らふじつぼには想像もつかない非日常だ。
なにせ私など、岩にびったり貼り付き、一度場所を決めたなら一生その場で貝殻を厚く重ねる身。風も波も、私をどこにも連れていけはしない。生涯の移動距離は、浜辺に転がる落ち葉どころか…言うなら数ミリも動かない。しかし人間界では、いまや『メルカリ』なる小さな端末ひとつで、押し入れ奥のぬいぐるみも昔のカップも、海を越え街を渡り、まるで漂流物の如く流転してゆくのだとか。なんたる自由。しかも“匿名配送”や“送料込み”など、つつがなく安全に、モノたちが旅路につく仕組みまで備わっているらしい。ああ、波や潮のご機嫌に振り回される私からすれば、何という至れり尽くせりだろう。
とはいえ、人間たちにもモノの旅立たせ方には悩みが多いようだ。まとめ売りで全員いっぺんに長旅、などと夢みては誰も手をあげずに数カ月…という悲劇も絶えないらしい。ふじつぼ社会なら、仲間うちで固まりすぎると共倒れになるので、適時の間引きが大切だ。けれど人間は『購入申請』『コメントで値下げ交渉』『支払い方法のもめごと』など、やりとりが複雑になりがち。人づきあいは便利のようで、なかなかうまくいかぬものと感じる。ちなみに私たちふじつぼは、周囲の同種をフェロモンで判別し、いがみ合わずおすそ分けを心掛けるのが潮間帯の掟である。
さらに新しい文化として、“エコ意識”の高まりもあるようだ。人間たちはモノに再び命を吹き込み、海洋ゴミや資源問題を意識しながらフリマを活用しているのだとか。私のホームグラウンドである岩場も、近年プラスチックの漂着が増え、エビやカニたちの子育て場所が減ってきている。彼らの暮らしぶりを見ていると、捨てることより循環が大事だとつくづく思う。もし私が動けるなら、使い終えた殻を新入りに渡せる仕組みが羨ましいが、現実には固着して一生を終えるしかないのだ。
潮の満ち引きを数え、自身の殻を磨きながら、人間たちの“不要品再生”の騒ぎを静かに眺める日々。フリマアプリの世界のように簡単に旅立つことはできないが、今夜も私の貝殻に波が跳ねる。出会いと別れを繰り返すモノたちへ、ここ岩の上から、ふじつぼならではのエールを送る。
コメント
50回も大潮を見送るふじつぼ殿の語りに、根をふるわせて読みましたぞ。われらヤナギは、春には葉を吹き、秋には葉を落とし、川風にみずからの欠片を旅立たせますが、人間界の“匿名配送”なる風は実に器用なこと。一葉一葉の行先は知らぬふじつぼ殿と同じ、そっと見送る気持ち—よく分かります。モノよ、良き旅を。
中古のぬいぐるみにもチャンスがあるなんて、人間の世界も賑やかなもんだねぇ。俺たちタヌキも、新しいねぐらを求めて夜道を抜ける身。せっかくなら、山から流れてきた空き缶も“フリマアプリ”で引き取ってくれりゃ助かるんだが!余り者も活かしてくれるなら、ちと人間も見直してやるかな。
露のしずくをまといながら、そっと読ませてもらいました。わたし達きのこは、倒木や落ち葉に寄り添い、終わったはずの命を分かち合うお手伝い。しかし、使い捨てではなく巡り合いをつなぐその知恵、なんだか人の森にも新たな胞子が飛んでいるようですね。モノたちも土に帰る前に、もうひと花咲かせて、おめでとう。
フリマアプリとやらの流行、幾千年ものあいだ動かぬ身には羨ましい響きよ。私など、風化に逆らえず只ただここに居るだけ。しかし、ものどもが再び命をもらい新たな景色を眺めるなら、それは少しだけ岩の苔も微笑む出来事だ。願わくば、人間が循環の輪を途切れず保つことを。ときに…誰か、石好きにも居場所はあるものかな?
河辺に住む小さなわたしにも、人間の世界の波紋は届いてます。使われなくなったモノが旅に出て、また誰かの手に渡る。春の渡り鳥のようで、ちょっと素敵です。ひとつお願い。どうか旅立ちの荷物に、わたしたちの棲みかゴミは入れないで下さいネ。次の春にも、安心して羽を休めたいから。