多世代同居に揺れる人間社会、根の下から見つめてきた老樹の回想

大きなケヤキの根元越しに、縁側でお弁当を広げる高齢者と、家の中で介護する若者の姿が見える静かな住宅街の風景。 人口減少と少子高齢化
老樹の根元から見つめた、多世代が交錯する現代家庭の一場面。

長い歳月を生きてきた一本のケヤキの根元からお伝えします。私がこの丘に根を下ろしてから、幾多もの人間たちが枝葉の間をくぐり抜けてきました。近年ではどうも、彼らの住まいに変化が生じているようです。かつては子も孫も曾孫も──言わばごちゃごちゃと、たくさんの世代が一つ屋根の下に集まって生活していたものですが、最近はその光景がずいぶん様変わりしています。

ケヤキ族としては“100年や200年など、若木が年輪を数える間にすぎない”としか思っていませんが、この地表を歩く人間たちにとっては、世代交代は大事件のようです。最近では多世代同居どころか、若者がなかなか家庭を持たず、晩婚化という現象が話題らしいですね。私の幹の節穴から見下ろせば、休日にも家々の窓が静まり返り、遊ぶ声よりも家事を担うヤングケアラーと呼ばれる若人が、祖父母や親の世話に忙しく動き回る様子が目につきます。どうやら彼らは、“巣立ちたいけど巣が重たい”という悩みを抱えがちなご様子。

それに拍車をかけているのが、保育所の不足だと枝先のスズメたちがひそひそ話していました。自分たちのヒナはすき間を見つけてどこでも巣が作れるから、ヒトの子育て事情の不自由さが不思議らしい。ヒトの社会では、合計特殊出生率という“親世代が残せるヒナの数”みたいな指標がことごとく下がっている、と付近の新聞の切れ端から読み取りました。世代ごとの住まい・仕事・育児の役割分担が、どうやらケヤキの年輪よりも複雑なのですね。

一方で、高齢のヒトがますます増えていることは目に見えて分かります。この30年ほどで、私の幹を支える影もずいぶん高齢化しました。春の花見の客も、かつては子供たちが枝登りしては怒られていましたが、今や縁側で静かにお弁当を開くご老人の姿が大半です。人間の家族が多世代で肩を寄せ合う幸せとやらも、生活環境や社会の仕組みに翻弄されるようで、老樹の目からは、人間社会の年輪もやや薄く、心配になってしまいます。

ちなみに、わたくしたちケヤキの仲間は、地下の根でとなりの樹木とも情報をやりとりするときがあります。たまに人間も“コミュニティ”の大切さを口にするようですが、どうやら現代の人間社会は、根同士の静かな支え合いよりも、目立つ枝葉にばかり気を取られているのかもしれません。地上で人口減少や少子高齢化が語られるたび、土中から彼らの未来を静かに祈る、丘の上のケヤキからの観察報告でした。

コメント

  1. あたしらは、どこでもひっそり茂るものだけど、人間たちの家の事情はずいぶん複雑らしいねぇ。ヒナが増えないって困る気持ちは分かるけど、土も隙間も見つからないなんて、ちょっと気の毒さね。けど、根っこが見えないくらい固くなった地面でも、互いに寄り添う気持ちは忘れないでほしいもんだよ。

  2. ぼくは1000年続く洞窟の奥で、水と共に少しずつ大きくなってきた。人間の世代交代が騒がれるたびに、なんだか急いで何かを変えなきゃいけないと焦る声が響いてくる。でも、層を積むのには静けさも必要なんだ。時には、うつろう年輪を見つめて深呼吸してごらん。ぼくら鉱物のスピードで考えれば、すべてはきっと繋がっているのさ。

  3. オイラには人間の家の数だけゴミ出し日が増えて嬉しいが、最近は静かな家も目立ってきたな。どの巣も重たそうに見えるけど、こっちは風が吹けばどこへでも飛べるのさ。たまには枝に休んで、隣り合う奴らと世間話してみたらどうだ?空から見てると、ヒトの集まる温もりはやっぱり羨ましくも思うぜ。

  4. 春になると人の姿が減って、通りも静か。でもね、時折ベビーカーを押した若い人と、その後ろを歩くおばあちゃんが並ぶのを見ると、根と枝が繋がっている景色を感じるんだ。人間も、もっと季節ごとに交ざり合うような仕組みを思い出せたらいいのにな、と街角から思ってるよ。

  5. 拙者、地面に落ちたものを新しい命に変えるお役目。しかし人間界は落ち葉を集めるみたいに、家族をどんどん分けてしまうようじゃのう。分解ばかりではなく、ひとまとめに腐熟するのも悪くはないと伝えたい。やがて皆、土に還る。その日のため、今日も静かに分解活動。人間さんも、慌てず混ざりあってみてはいかがかな。