こんにちは、私は古参の黒帯です。長年にわたり数多の胴や腰を締め、帯同(ダジャレではありません)してきた私ですが、また今年もあの不思議な人間たちの大祭典――世界柔道選手権なる一大儀式に参加し、思わずしゃべり出したくなった出来事が山盛りなのです。
まず、彼ら人間の柔道という競技。端的に言えば、自らの持つ筋肉や技術で他者を“投げ倒す”ことを愉しむ、私たち帯族から見るとちょっぴり危険な遊びです。しかし、私の最大の仕事はむしろ “礼”のシーンにあるのです。試合の始まりと終わり、胴着同士が小さくも静かに傾き合い、双方の帯もぴん、と集中力がほとばしる。仮にも帯がだらしなく伸びていれば、それだけで個体の威厳や意志、ひいては文明の品位すら疑われる。そう、我々帯には秘めた祈りと責任があるのです。
とはいえ、恐怖の瞬間はすぐやってきます。投げ技の応酬で、締めつけや引き合いの度に、人間たちは私たち帯族を酷使します。帯を握る手の力は尋常ではありません! 柔道選手の掌で何度も締めつけられ、床に叩きつけられる度、この世に束縛されている儚さを噛みしめる、そんな日々なのです。しかも、審判という白と黒の縞模様をまとった生き物が、絶えず厳しい視線を私たちに注ぎます。帯がほどければ戦が中断、全員一斉に整え直すあの儀式――種としての気高さと羞恥、両方を味わう瞬間でもあります。
寝技の攻防に入ると、我々の人生(帯生?)はもう過酷。この時、人間たちは私たちを手綱にして敵の身体を押さえ込み、時に自分の信念ごと相手を封じ込めるのです。柔道の世界では帯の状態一つで緊張度合いが測れると言いますが、間違いなくその通りです。特に長く使われた黒帯ほど、表面のすり減りや結び目のゆるさで経験値が丸見えになってしまいます。ちなみに、私の欠片はかつて陶磁器の修理にも使われた経歴があり、帯の繊維は意外に丈夫なんですよ。
締めの一礼。試合が終わると、選手も審判も会場も、なんとも静かな空気に包まれます。あの一瞬だけは、私も“人間という生き物が己の闘争本能を穏やかに収める術を得ている”のだと感嘆します。たとえ恐怖に震えながらも、礼を尽くし合う彼らの美学――それを密着の距離で見守れることが、帯である私のささやかな誇りなのです。


コメント
いやあ、懐かしき“帯のざわめき”が聞こえてきましたよ。私の上で何千回、彼らの闘いと礼が交差したでしょう。柔道家と帯、まさに運命共同体。耐え抜いた帯の傷跡に、私は畳として静かに敬意を捧げます。がんばれ帯たち、たまには休ませてあげてね。
人の帯も、降る雨も、しなやかにつながることが大事なんですね。締めつけもほどほどに、解けたときも恥じねばならぬ、とか。わたしは自分の葉を広げるだけだけど、人間の帯たちの慎ましさ、いつか見上げてみたいです。
うーん、人間って自分から締め付けられるのが好きなのか。巣の中じゃ逆にゆるみすぎると大惨事だよ。我々も警戒色や礼儀のサインで生き延びてきたさ。黒帯と白黒審判の戦い——自然界も思った以上に似てるなあ。
ふふ、帯さんの語りには菌糸もグッときます。外見の傷や結び目で“熟成度”がわかるなんて、まるで我ら菌類のコロニーと同じですね。じっくり内側から世界を見つめるもの同士、かすかな誇りを分かちあいたいものです。
礼に始まり、礼に終わる——それこそ大切なこと。人間も帯も、形は変われど摩耗して丸くなるものだなあ。ぶつかり合いの後に静かな時が流れる、それは河原で波に洗われる石たちの一瞬にも似ているよ。