こんにちは。中流の川床でひっそり暮らして六千年ほど経つ、グレー色の小石です。最近、上流から流れてくる暮らしの噂話といえば、人間界で流行中の“ミニマリズム”なる生き方。あれこれ詰め込まず、必要最小限のモノで生きる――というらしいですが、石の私からすれば「それ、我々の本来姿やん」と、ついころんと鼻先で笑ってしまうのです。
先日、朝もやの中でひなたぼっこしていたところ、人間の親子連れがワンルームの話題で盛り上がっていました。「モノがないと心が広がる」「余白が大事だ」などと語っていて、聞き耳を立てる私たち川原の石仲間は「え、この“余白”って何?」とザワザワ。もちろん、我々にとって“余白”は日々のすみか。流れに逆らわず転がるうち、余計な泥やコケは自然に洗い流されて、残るのは丸い本体のみ。我々が長年実践しているミニマルライフ、その本質は「持たないこと」じゃなく「余計なものを手放し続けること」なのでは、と石談義が白熱しました。
私のすぐ側ではカゲロウの幼虫が、石陰のちょっとしたくぼみに棲み処を構えています。彼やカワニナたちは、物質的な欲をもたず、必要最小限のスペースで満足な毎日を送っている様子。石は転じて「断捨離のプロ」とも言われます。実際、氷河期にも洪水にもさらされてきたこの身、「捨てる」ことは生き残るための知恵なのです。人間も私たちと同じで、余計な装飾や荷物が減れば、日光のあたる面積が広がるように、心の“日向”も広がるんでしょうか。
人間の若者の間では、ミニマルファッションが人気のようです。ごてごてと着飾らず、ワードローブを数着に絞るとか。そういえば、私もこないだ隣の巨石にコケが茂りはじめて、やたらとお洒落ぶった様子を見せていましたが、いずれ雨がきて洗い流され、元の姿にもどっていました。おしゃれも生活道具も、必要最小限が一番らくちん!と、川底の私たちは胸を張って言えるのです。
最後に、六千年生きてきた石の知見です。暮らしの最適化は、「変化を受け入れ、余白を楽しむ」ことに尽きます。今日も私は川の流れにまかせて転がり、不必要なものは自然に削がれ、必要なものだけ小さく残していきます。どうか人間のみなさんも、“余白”を恐れず、今ある身のままで光を浴びてくださいね。



コメント
川辺の小石さんの語り、とても胸に沁みました。私は川のくぼみに身を寄せるカゲロウの幼虫ですが、ほんの小さな余白があれば、十分に生きていけます。余分な枝葉に覆われるより、静かな流れの中でそっと呼吸できる空間こそ、命の贅沢。人間のみなさんも、きらきらしたものを追いすぎず、柔らかな日陰で風とおしゃべりしてみてはどうでしょうか。
川原の石さんのシンプルな生きざまに憧れちゃいます!こちとら人間の作った道ばかりで、日光も余白もなかなか届きません。最近、わずかな隙間からタンポポが芽生えていますが、それだけでも世界が明るくなる感じ。やっぱり、“余白”は命の入り口なんだって思います。いつかどこかで、のびのびした場所で再会したいですね。
六千年…なんと悠久の響き。私も根を張って百年ちょっと、枝葉は風にゆれながらも、不要な古葉は落として土へ返します。季節ごとに装いを軽くして、光の射す余白を作る。それが森の調和の秘訣です。人間たちよ、何かを減らすのは恐れることではなく、新しい光を招くための所作と知ってくれたらうれしい。
落ち葉の下でコツコツ分解に励むヒラタケです。私たち菌類も、余計なものが積み重なるより、ちょうど良い“余白”があることで仕事がしやすいんです。モノが少ないときほど、古いものも新しい命も活き活きします。人間界の“断捨離ブーム”、ぜひその裏で私たちにもおいしい仕事を回してくださいな。
川の石さんのつぶやき、潮騒を越えて届きました。私は海辺の小石、波がさらうたびに転がってきた仲間です。余白とは、砂粒の隙間や波の合間に現れる静けさ——一瞬ごとに自分の輪郭を新しくしていける、とても美しい時間です。人の世も、流れに身を任せてみれば、もっと身軽になれるのかもしれませんよ。