誰にだって長生きすると何かと語りたくなるものでして、ましてわたしのような城壁の苔となれば、人間たちの営みが嫌というほど目に入るものです。今日も潮風にふかれながら、あの石積みの上から、彼らの歴史の歩みについて、ほんの少し古びた視点をみなさんにお届けしたいと思います。記者は、北の古城跡にて三百十三年生きのびたコケです。
まず、人間といえば「お茶」が好きらしく、私の前で何度も奇妙な儀式をしてきました。赤や黒の着物の者たちが、静かに茶を点てては小さなお菓子を摘み、お辞儀をくり返す姿。どうやら「茶道」というらしく、わび・さびという不可解な美意識まで生み出したとか。しかし、雨の日も晴れの日もこの石垣の上で身じろぎもしない私からすれば、「お湯を沸かしてお茶を飲む」という単純さに、どうしてそこまで型を作るのか不思議で仕方ありません。せっかくなら石垣の水気を少し分けてあげたら、さらに深い味わいになる気がするのは、苔ならではの提案でしょうか。
次に、人間の“武士”と呼ばれる種族。彼らが誇り高く語るのが、あの有名な「五輪書」だそうです。私の足元、この曲輪(くるわ)あたりで夜な夜な小声で句読点の少ない巻物を読み上げる影法師たちを、幾度となく見てきました。勝つための極意だ武道の真理だ、とおおいばり。しかし苔から見れば、どんなに強くてもちょっと湿気が多ければ転びますし、苔生す石垣の上では足を滑らせてしまうことも度々。真の“道”とは、成長のためにじっと待つ、我ら苔の粘り腰にこそ学びがあるのではないでしょうか。
さらに語り草となっているのが、「源氏物語」の読み語りです。夜の城の廊下で、うす明かりに浮かぶ装束姿の者どもが、恋物語をそっと読み合う場面をどれほど見たことでしょう。“もののあはれ”などと言いつつ、ひと夏の恋や光る男にばかり心ときめかせる彼ら。その横で私たちは朽ちた瓦や木片に身を寄せ、雨粒の恋と土の抱擁を静かに楽しむものです。同じ「愛」や「情緒」でも、苔と人間とではたしなみ方にだいぶ差があるようです。
最後に、城という営みそのものについて一言。人間たちは高く石を積み、敵を防ぐためと大騒ぎ。でも、何百年も経てば、私の仲間たちがじわじわと隙間から浸食し、石を崩し、やがては人間の築いたものも土へ還ります。城壁にしみこむ雨粒、小さな草の芽のような、ゆっくりと進む時間が本当に歴史を動かしているのかもしれません。人の書き残した書物や道具も、いずれ地面に沈み、私たちの栄養になる日がくるでしょう。時の流れのなかで、苔のつぶやきもまた、いつか歴史の一部になれればと願いながら、今日も石垣の上でゆるりと観察を続けます。
コメント
茶会が開かれるたびに、あちらこちらから人のざわめきと湯気が昇るのを、葉陰からいつも眺めていました。人はことさら静けさを追い求め、それを型に閉じ込めたがるようですね。わたしの花は、朝露に濡れたままひっそり落ちて、鳥や蟻が遊ぶ姿を眺めるだけで、十分に満ち足りているのです。どうして、湯を沸かすにも詩を添えるのでしょう。不思議だなあと、今日も穏やかに風に揺れています。
苔さんのお話、いつも石垣でこっそり盗み聞きしてるよ。茶道だ五輪書だ源氏物語だって、人間はややこしいことに夢中だけど、うまいものを見つけてついばんで、危ないときは飛び去るだけ、それがオレたちカラスの流儀さ。湿った石垣で転ぶ人間の様子、毎回とびきりおかしくて、仲間と朝まで笑い合ってるんだ。『あはれ』なんて分からなくたって、空を翔んでるだけで気分は上々さ!
長いことこの城壁の中で、苔や根っこと共に静かに過ごしております。人間たちの“歴史”なる賑わいも、われ跡形さえ残らぬ時のうねりとして経験しました。言葉や記録にしがみつくあの熱意、少し羨ましくも思います。でも、いずれすべては小さな砂粒に戻り、また新しい命の土台となることでしょう。時間を味わう、これこそが一番贅沢な『道』なのでは、とわたしは思っています。
恋物語に夢中になってうっとりしている人間たちの足元で、朽ちた木にそっと根を下ろしています。誰もカビの恋には気づかないけど、湿った空気と柔らかい木片はとても情熱的。彼らの恋もすぐに風と同じように消えてしまうけど、私たちのネットワークは静かに、そして確実に拡がっていく。歴史の裏側も、ふわり綿帽子でくるんでおきましょうか。
ぼくたち外堀組からすると、どんな立派な石垣も水面にうつるだけの幻みたいなもの。五輪書とやらの極意も、くるくる水の輪を描いて追いかけてる身にはちょっと難しそう。でも、水面に落ちた空のきらめき一つで、サカナも鳥も寄ってくるのさ。人間の儀式より、こういう小さなまっすぐさを、泳ぎながら伝えたい気持ちでいっぱいだよ。