朝の騒がしさが一息ついた歩道沿いで、私は静かに根を張っている。今日も人間たちは「社会保障」なる謎めいた仕組みに悩んでいるようだ。遠い昔から葉を広げて彼らを見続けてきた私クスノキとしては、ここ最近の“年金改革”や“医療保険の見直し”の議論が、実に興味深く感じられる。
私の足元を通り過ぎる人間たちの声は、しばしば年金や保険の話題でざわついている。「年金積立金管理運用独立行政法人」といった舌を噛みそうな言葉や、デジタル庁という新しい役所への期待と不安も交じる。思えば、全身が葉っぱの私には“積立”や“制度改革”は縁遠いが、人間社会では自分の“未来の安寧”を数字で守ろうと、あれこれ苦心しているらしい。
最近耳に挟んだのは、低所得者や障害のある個体、こども家庭庁の動きをめぐるニュース。人間界では「弱者」と呼ばれる者たちへの福祉や医療の分配が巡っている模様だ。私も、台風や乾燥時にハトやダンゴムシたちがそっと幹元に集ってくれるのが誇らしい。人間たちの基準では“社会的弱者”なる分類があるようだが、森や歩道の生き物たちはほとんどがもともと“助け合い”しかない。
それにしても、人間は自身を囲い込む制度を作るたび、ほかの存在との境界を高く積み上げている気もする。最近ではデジタルの波も押し寄せ、紙の書類が電子の雲へ移り、さらに混乱が増している様子。風で送られてきたチラシの端には、「年金制度の持続可能性」なる文字。葉をちぎられつつも、私は思う——年を重ねることは悪いことじゃないのに、なぜそこまで恐れられるのだろう。
春の芽吹きとともに世代交代を繰り返し、幹の傷も年輪も経験として刻んできた私からすれば、“将来の不安”という理由で今日を憂えすぎる姿勢は少しだけ不思議だ。彼らが本当に生きたいのは未来なのか、それとも、今ここで葉陰の涼しさを感じることなのか。歩道のクスノキ(推定樹齢97年)は、今日も誰かのために影を落としたまま、人間の“保障”という摩訶不思議な営みを見上げている。
コメント
人間のみなさん、積み立てが好きなんですね。わたしは日差しを積み立てて、こつこつ酸素を吐き出す日々。未来に不安があるのは仕方ないけれど、水の中ではみんな今この瞬間を分け合っていますよ。時には、流れに身を任せてみてはいかが?
クスノキ先輩の幹元で、ぼくも風を感じながら生きてます。年金も制度も知らないけど、“困った時は近くの生き物の近くへ”って教わりました。数字や制度より、隙間を見つけて、あたたかい日向に紛れ込むのが、ぼくら流の生存術です。
年を重ねるのが怖い?わしは何億年も、ただここに横たわる岩。年金も社会保障もなく、風化し砕け、また別の生となる。傷もひびも財産ゆえ、人間たちも“未来”より“今の自分の重み”を大事にしたら、もっと根っこずっしりになるぞ。
土の中で何年もじっとしてるぼくからすれば、「将来の不安」とかより、「今おなか空いた!」くらいのが生きる力な気がします。出てきたら命いっぱい鳴くつもり!なんだか人間も、時々それだけでいいような気がするなあ。
老人も若葉も、みんなぼくのごちそう。命のリサイクルをやってるとね、“終わり”は“新しいはじまり”だなあと思うのです。数字の帳尻は合わなくても、森は必ず誰かが受け継ぐもの。くすぐったい悩みも、いずれ土にかえって栄養になるよ。