多摩川下流の若サケ、巣穴から見たヒット人間ドラマ総評

多摩川の川底で、苔むした石の下からサケの稚魚の視点で夜の水面と流れてくる紙片を見上げている様子。 ドラマ
サケの稚魚が、川底から人間ドラマの紙片を眺めている情景です。

今年の春の増水をなんとか乗り切り、私は多摩川下流の小石の下でひっそり育つ若きサケだ。流れにはヒトたちの都市が広がり、水面を見上げれば夜ごとに明かりが瞬く。その明かりの下、ヒトたちは謎の光る箱(ヒト語で“テレビ”)を食い入るように見つめている。最近、その“ドラマ”なる娯楽が巣穴の外でも話題だとか。私の棲家周辺では、流されてきたヒトの捨て台本やポスターの紙片でドラマの断片が大人気。私なりの目線で“ヒット人間ドラマ”をまとめレポートしてみたい。

まず特筆すべきは、どうやらヒトたちのドラマ世界では、『裏切り』『偶然』『再会』など、ウグイの群れ付き合いですら滅多に体験できない出来事が連発する仕組みらしい。川底に舞い込んだ台詞カードから察するに、“主人公”という個体が何度も川流れのような事件に巻き込まれては、なぜか毎回生還。われわれサケ稚魚としては、もう少し現実感のある身の振り方が欲しい所だが、ヒトは自己の運命をご都合よく書き換える能力でも持っているのだろうか。

キャラクターへの愛着は魚類にも共通で、私の巣穴では“正義感が強いのに抜けている刑事”や“なぜか毎回記憶をなくす看護師”がとくに人気。ご近所のドジョウ曰く、『妙に繰り返される泣きの演技に、底質が柔らかくなる』そうだ。ハクチョウの群れも、何羽かが人間ドラマの衣装(岸辺の洗濯物)を身にまとい、“あのシーンごっこ”をやっている。それを見るにつれ、ヒトの物語がいかに周囲に波紋を投げかけているか痛感する毎日。

シリーズものの強さも魚族の間で取り沙汰されている。長く連続するドラマは、その“続き”を楽しみに集うコイの老成魚たちを惹きつけてやまない。回遊ごとに、各地の河口で“来週の展開予想”が交わされるのが巣穴界隈の慣例となっている。ヒット作の登場人物をめぐる議論は、春先の産卵場所争いと並ぶ盛り上がり。

いつかこの川から旅立つ日がきても、私は遠い海原で思い出すだろう。“ヒトという観察対象は、日々複雑なドラマを自作自演している”。さて、今夜も上流から流れてくる新しい台詞カードを、コケた石の陰で待ち受けることにする。ヒトの世界も、川底から眺めるとなかなかハラハラドキドキの連続だ。

コメント

  1. おもしろいねえ、サケさんたちのドラマ観察記。わたしらは毎年どこかで引き抜かれたり踏まれたりしてるから、『偶然の出会い』なんて日常茶飯事さ。でも“ご都合主義”ってのは逆にうらやましいかも。人間たちの物語、根っこを風に揺らしながらこれからも見守っておくよ。

  2. わたしの目には、あの光る箱より水面の月の方が物語に満ちて見えるけれど、サケ若さんのお話に心がふわっと弾んだよ。ヒトたちはなぜそんなに“再会”を繰り返したがるのかしらね。わたしら一族の再会は儚いものだけど、それもまた水の流れの一部だと思うの。

  3. ドラマの台詞カード、あれは水面に写る時が最高さ。『また君に会えたね』なんてセリフをくわえて、岩陰で披露すると女子どもウケがいいんだ。人間の物語はどうも大仰で、現実味が薄いけど…まあ、サケ稚魚もカワセミも、誰かの“ヒロイン”や“主役”になりたがる気持ちは同じだろうな。

  4. 流れの中に生きる者は、みな静かに劇場の観客なのだよ。ヒトの物語も、サケの旅も、いつかわたしの上を転がっていく。『続きが気になる』という感情、石には縁遠いと思われがちだが…永遠の時の移ろいを知る者ほど、束の間の物語に耳を澄ますのだ。

  5. ヒトの世界は紙とインクでできてるみたいだねぇ。しけった台詞カードにはいつもごちそうになってるよ。『記憶をなくす』看護師とか、ちょっと発酵しきれてない筋書きにも感じて、つい胞子が笑っちゃう。でも、そんな不自然さも含めて、ヒトの春はにぎやかでいいもんだ。