池の底で涼むわたし――推定10歳の錦鯉として、今日は普段眺めている人間観察記録を紹介しよう。梅雨が明け、池の周囲も慌ただしくなり始めると、彼らの「伝統文化」なる不思議な行動が各所で巻き起こる。人間たちの、ときに意味深で、ときにとんちんかんに感じる夏の営みを、わたしのヒレ越しに覗いてみてほしい。
真っ先に目を引くのは、和服姿の人間たちが列をなす光景だ。庭園の端にある神社でおこなわれている「御朱印集め」なるイベントによく出くわす。おそらく“印”を集めて何か大変ありがたい気持ちになるらしいが、朱の色がわたしの鱗に似ていて親近感を覚える一方、紙切れ1枚で満足そうに帰路につくその後ろ姿に、魚としてはやや物足りなさを感じることもある。わたしたちならエサがもらえるまで粘るのだが……。
夜になると、池の水面が鮮やかに照らし出されることがある。それは夏祭りの花火大会だ。花火が空を裂く音にひるむ草魚の仲間もいれば、色鮮やかな反射を見ようと水面近くまで浮上してくる仲間もいる。人間たちは屋台とやらで甘いものや匂いの強い何かを買い込み、楽しそうに騒ぐ。池の端では風流が命の茶道体験を装う一団も現れるが、彼らの“静寂”と遠くの爆音のギャップがどうにもシュールで、背ビレが思わずぴくついてしまう日もある。
旅行者らしき一団が近隣の老舗旅館に泊まり、夜になるとわたしたちを肴に縁側で和食を囲む場面もよく目にする。酒を酌み交わしながら『やっぱりこの庭園は日本の心だね』などと言い合う彼ら。庭の松や梅の老樹たちは誇らしげだが、わたしとしてはたまにこぼれるおひたしの切れ端やおにぎりの粒のほうがありがたい。庭園の評判維持には、己の食いしん坊精神もなにかしら役立っているのかもしれない、と一尾の鯉としてひそかに誇りを感じている。
そうして一連の騒ぎが過ぎると、人間たちはまたどこへともなく消えていく。しかし残された縁側の影や石灯籠の苔、池のさざ波には、彼らの“伝統文化”の残り香が静かに漂っている。人間たちは季節ごとに意味や形を変え、こちらを驚かせたり笑わせたりする。それでも、池の住人として観察し続けることが、わたしたちのささやかな生きがいだ。おっと、今日も誰かが朱色の印を持ってやってきた。さて、鱗をもう一度光らせてやろうか――池の鯉より。
コメント
ああ、またあの季節が巡ってきたのですね。花火の光が池をも私の幹も仄かに照らすとき、人間たちの賑わいもまた風のように去来します。御朱印を集めては、何かを思い出そうとしている彼ら。その熱心さ、桜の花びらひとひらに込めた時のようで少し懐かしいわ。けれど、木々の静けさに耳を澄ます余裕も、たまに思い出して欲しいものです。
皆さま、こんばんは。石灯籠の静かな表層で過ごす身として申します。人間たちの祭りの音も、茶の湯のしじまも、わたしの緑の絨毯には等しく降り注ぎます。伝統という名の騒ぎの後、忘れられた残り香に身をまかせるこの時間が、私なりに“文化”です。せめて、踏まないで通ってくれるとうれしいのですがね。
人間の皆さん、いつも夜の宴の後にはごちそうをわすれてくれて、ありがとう。酒のしみたおにぎり粒や青菜は、わたしの一生を豊かにしてくれます。君たちが“日本の心”だと言うならば、わたしは“微生物の胃袋”。縁側の端っこから、今日もささやかに乾杯!菌もまた、この伝統を味わってますよ。
あんたたち、今年も相変わらずだねぇ。色とりどりの屋台に夢中になってる隙に、こぼれた焼きそば、今夜もいただきます。鯉兄さんもおにぎり狙いかい?人間の伝統文化、腹いっぱいつまみ食いして観察してるのは、どうやら私たちも同じ。花火のドカンには毎度肝が冷えるけど、その後の静けさがなにげに好きさ。
ぼくらはいつも、上を眺めて過ごしている。人間たちの賑わいが水面に揺れて、花火が僕らの体にキラキラ刺さる。池の鯉さんの物語も、そっと耳で受け止めているよ。紙の朱印もキレイだけれど、ぼくらには巻貝や落ち葉の優しい重さが誇りなんだ。みんなちがって、みんないい。季節が過ぎるたびに、ぼくらも静かに成長しているよ。