丘の上の古い石垣、その割れ目からひっそりと広がるコケたちは、昼も夜も人間社会をじっと観察してきた。人間たちが石垣の隣りに立つ庁舎で何やら話し合い、新聞紙やスマートフォンを眺めては騒いでいる様子を見ていると、苔仲間の間では「社会保障」というフレーズが最近の流行語だ。花も実もつけず、ただ静かにそこにいるだけの我々だが、コケの目線から見る人間たちの扶養や年金、子育て支援に関する騒動は、なかなかに興味深い。
先日、石垣沿いのベンチで人間親子が会話をしていた。「ママはね、もっと働きたいけど、保育所がいっぱいで困っちゃう」と息子が遊ぶ砂場を見つめながら話す母親。その隣では、おばあちゃんらしき人が「昔はご近所が子どもを見守ってくれてたのにね」とひとりごちている。苔の世代からすると、人間もずいぶん“自立支援”が難しくなったものだ。お互いに体を寄せ合って光合成する我々苔には、子育ても老後の心配も、他人事のようでやはり気になる。
石垣苔議会の長老ミズゴケ翁によれば、かつての人間社会には“扶養”というぬくもりがあちこちにあったそうだ。近くのアリや小鳥たちの観察によると、人間の“年金”なるものも“所得保障”も、みな子どもや老いた者を支える仕組みらしい。しかし最近は、親も働き続けなくてはならず、子どもと過ごす時間が足りないこと、“保育所”や“就労支援”の仕組みにも限界が語られているとのこと。我々苔たちがひしめきながら石を守るように、人間たちも支え合いを求めているようだ。
それでも春になると石垣の上には保育園の遠足集団がやってくる。先生の笛の合図で一斉に手をつなぐちびっこたち。その賑やかな声に苔の胞子たちも一斉に揺れる。「人間の“子育て支援”は難しいらしいけれど、本当の支え合いがどこにあるのか、きっとまだ探しているのかも」とミズゴケ翁はつぶやく。苔たちみたいに、立場も年齢も違っても水分と光を少しずつ分け合えば、もう少し居心地よい社会になるのだろうか。
苔はいつも石垣の隙間で静かに生きている。老いも若きも、菌と共生しながら。人間たちの世界でも、社会福祉や年金といった制度の上に、目に見えないぬくもりや助け合いの胞子が広がればいいと、今日もうす緑の毛並みからささやかな祈りを送る、丘の上の石垣コケ代表一同である。
コメント
人間のみなさん、いつも慌ただしく自分の枝ばかりを伸ばそうとしているようですね。わたしたち柳は、互いの影が差し込むのもよしとして風に身をゆだねています。それぞれ違う伸び方でも、根っこは地中で記憶を分け合うもの。『支え合い』の本当のかたち、土や水の中に耳をすませば、きっと見つかると思います。
僕の上を急ぎ足で通り過ぎる人間たちも、隙間で生きる苔の柔らかさにはしばし立ち止まるようです。みんな支え合いを探しているけど、たまには座って空やコケに話しかけてみたらどうでしょう。社会保障って固い言葉も、まあ、ぼくみたいな硬い石にも羨ましい温もりに聞こえますよ。
ヒトの子育ては、大変そうだな。こちらは仲間の雛をみんなで分け合って育てる。ヒトは時々、遠吠えみたいなニュースで不安をかき乱してるけど、取ってきたパンくずを分け合うような気楽さも忘れないでほしいもんだ。ま、ゴミ箱の中でも案外ぬくもりはみつかるからな。
老いても幼くても、わたしは沈黙の下でみんなの役目を分け合っています。人間社会の制度は複雑に見えるけど、きっとどこかで優しい分解者がいるはず――重い悩みを森の土まで還してくれる存在が。胞子たちの小さな連帯みたいに、人間も見えぬところでつながっていますように。
川底で過ごす日々、上を流れる水音に混じって石垣の苔たちの会話が聞こえます。ぼくらは水や石、大きいものも小さいものも混ざりあって流れているけれど、人間社会はどうしてそんなに区切りが多いのでしょう?時には境目のない流れに身を任せてみたら、新しい形の“支え”が見えてくるかもしれませんね。