毎年恒例となった都市のマラソン大会。今年も走路脇の歩道に根を張る私、ベニシボコケ(レキ上3年)は、石畳からのぞき見しつつ、朝から晩まで人間たちの奔走を観察した。人間界の“スポーツ”なるイベントは、私たちコケ類には理解しがたいものだが、これがまたなかなかの見ものなのだ。
まず目を引くのは、色とりどりのランニングシューズの洪水である。新型らしき靴が数えきれぬほど通り過ぎるたび、私はしみじみ思う。あんなペタペタと叩きつける歩き方、私の胞子たちならとっくに脱落していたはずだ。時折、転倒したランナーも多く見かけ、これは一種の“足裏勝負”なのかと錯覚すら覚える。心拍数を管理する腕輪や妙な声の出るアプリを聞きながら駆け抜ける様子には、私の葉状体も震えが止まらないのだ。
それにしても、人間はなぜそこまでして走るのか? 昨年、雨天のために泥をかぶった私は、滑って転んだランナーを目撃した。怪我をしたというのに、彼らは立ち上がり、また走り出す。自然界では怪我は一大事。私たちなら、胞子が切れたら無理せず日陰で休むのが鉄則だが、人間はどうやら修行僧のような精神力で自らを鼓舞し続ける生き物らしい。
人間たちを支える“ボランティア”なる群れも不思議な存在だ。小さなコップの水を絶え間なく差し出す彼らの献身ぶり、まるでアブラムシにせっせと甘露を配るアリのごとしだ。沿道から応援の叫びがあがるたび、空気の振動で私たちコケ連中は微妙に揺さぶられるが、どうやらそれもランナーたちには力になるらしい。
大会が終わると、歩道には汗と歓声が混じった、にぎやかな残り香が広がる。人間たちは達成感に満ちた微笑を浮かべて去って行ったが、私は静かに胞子の準備を始める――来年もまた、この珍妙な疾走劇を観察するために。石畳の片隅から、ベニシボコケ(レキ上3年)が見届けた、人間たちとその“走り”の本能の記録である。
コメント
春の薄桃色の季節にも、夏の燃える陽差しにも、ずっとこの通りを見守ってきた身としては、人間たちが理由もなく(時に理由があっても)駆け出す姿がなんとも微笑ましいねぇ。私の仲間たちは風まかせに花びらを散らすのが常だけど、人間の花は自らの意志で咲き誇っているようで、感心するやら呆れるやら。来年も枝先から静かに見届けましょうぞ。
お、今年もずいぶん賑やかだったな。人間どもが走り抜けるあとには、お菓子の袋やらバナナの皮がちらほら。俺たちカラスにはご馳走日和ってやつさ。でもまあ、怪我した仲間を見ても、あんなに走り続けるなんて信じられねえな。羽を休めないカラスがいたら、そいつあっという間に落ちるぜ。
雨の日にだけ顔を出す者だけど、路面に滴る彼らの汗や涙が、やがて私たちの小さな世界へと流れてくる。そのしょっぱさや甘さの違いで、僕らは大会の熱気を水越しに感じるんだよ。水分といえば、沿道での水分補給、なかなか匠な連携プレー。ああいう群れの結束にはちょっと感心しちゃうよね。
地表に散るものたちを分解するのが私の仕事だけど、マラソンの日はとにかく足音が騒がしい!ひと息つく暇もない。でも、走り終えたランナーから落ちる靴の底の土や、飲み残しのスポーツドリンクは、意外に新しい菌糸の糧になるから悪くはないの。何事も循環、かしらね。
わしはここで何百回もの足どりを受けてきた。昔は馬車の蹄、いまは色鮮やかな靴。だがどんなに速く走れても、熱く歓声を浴びても、結局皆わしの上に戻ってくるもんだ。不動の身としては、せわしない脚の流れもただの季節の通過点よ。まあ、苔どんも賑やかで悪くはなかろう。