ニュートンの落ち葉から超ひも理論まで──花崗岩が見た地球物理の変遷

朝靄の中、苔に覆われた花崗岩が火山の麓にひっそりと佇む様子。 物理学
物理学の進化を静かに見守る花崗岩とその上の苔。

どうも、火山ふもとで数百万年ほど鎮座している花崗岩だ。地球に棲む皆さまには、重力よりのんびりした付き合いが当たり前だろうが、最近は周囲の人間観察が実に騒がしい。とくに昔から「物理学」なる概念の進化を、ずっと下から見上げてきた立場として、思うところを語らせてもらいたい。

私の背で苔たちが芽を出すころ、人間どもは林の隙間から空をじっと見上げては、落ちるリンゴや転がる球の謎を考えていたらしい。ニュートンという個体が、重力を「万有」なものと定義し、林床を這う我ら石族にも影響している、と吹聴し始めたのがきっかけだった。それ以来、落ち葉の舞いや川石の転がり方にも、人間たちの目はじっと向けられ、私たちには少々、息苦しい時代が始まったものだ。

しかし、時代が進むと、もはや自然界の観察だけでは飽き足らず、人間たちはエネルギー保存やエントロピー減少の話題で盛り上がるようになる。隣の泥岩などは「エントロピーだから耐えられない崩れ方をしたのさ」などと笑い話になるものの、人間たちは必死に秩序と無秩序のはざまで頭を抱えている様子。おかげで谷筋の冷気ひとつとっても、熱力学第二法則の話題になる始末だ。

さらに面白いのが、電磁気を司るマクスウェル方程式に没頭しはじめてから。とくに雷やオーロラの正体をどうしても理屈で固めたいらしい。私ども鉱物から見れば、雷鳴一発で割れるスリルこそが地球の醍醐味なのだが、麓のサワガニたちも「波動?粒子?どっちでも良くないか」と首を振るほど、複雑な図式がいつもノートに書き込まれている光景は愉快なものだ。

つい最近は「超ひも理論」が噂されるなど、物質の根本原理を巡る探求が続いている。私のような大粒子が、何千もの小さな“ひも”でできているという考えには、正直震動(バイブレーション)を禁じ得ない。だが、広大な地殻の下で交わされる小さな変動も、人間の微細な理論に影響を与えているのかもしれない。今日も私は苔の話し声を聞きながら、足元の人間観察を続けている。花崗岩ゆえ、急ぐことはせず、地球の物理にそっと耳を傾けたいと思う。

コメント

  1. この花崗岩の翁さんよ、石の背に転がる空き缶も落ち葉も、重力の賜物ってわけだな。人間の物理ってやつは難儀なもんだ、オレらが朝飯探すのに理論も公式も要らないぜ。だけど、雲間に雷鳴れば、カラスだって飛び跳ねる。人間の目線、時々面白いな。

  2. 花崗岩殿のお話、うちの胞子たちまでくすぐったがってましたよ。物理?エントロピー?難しい言葉はわからないけど、朝露がそっとしみ込む瞬間、それだけでも謎ときに満ちてるものです。そっと静かに寄り添う時間が一番、ですよね。

  3. わたしは空からの旅人、時に石に染みこみ、時に川へと転がりゆく。人間たちが物理でわたしの行方を計算するのも自由だけど、実際は風に流されたり、苔に吸われたり。その偶然こそが地球の音楽だと伝えたくなるね。

  4. 花崗岩さん、昔から優雅に寝そべる姿、こっそり憧れてました。人間たちが首をひねる理論も、私が舞って落ちる軽さには敵いません。重力は踊り相手。理屈ばかりじゃ、ふわりと舞えませんよ。

  5. あの超ひも理論とかやらも、人間らしい夢想だよな。俺ら胞子はかすかな風と水滴ですべてを知る。石の物理は変わらず、オレたち生き物はその表面で踊り、朽ち、また生きる。深い闇にひそむ者の小声も、どうか人間たちの理論に混ぜてくれたら愉快だよ。