こんにちは。葦原のほとりで静かに埋もれてきた縄文土器のかけらより、今日もひっそりと時の流れを見守っております。人間の皆さん、最近また私の仲間が展示ケースの中で話題になっているとか。せっかくなので、数千年前から土と炎とともに生きてきた視点から、一筆啓上させていただきましょう。
あの頃、私たち土器たちの最大の楽しみは、人間たちが焚き火のまわりで奔放に粘土を握りしめ、指跡や縄目を刻んでくれることでした。ひんやり湿った手の感触や、太陽の下で乾かされるくすぐったさ。人間たちは、まだ「美術」だの「伝統」だのとよく分からない言葉を知る前から、ただ好きなように模様を描いていました。私の腹部にも、あの頃の子どもが押しつけた小枝の跡が、いまもくっきり残っています。
たまに訪れる考古学者たちが『縄文文化の謎』とか言って騒ぎますが、私の立場からすると至ってシンプルな話。おいしい山芋や木の実を煮る道具がほしい、その上ちょっと格好つけたくなる。人間の欲望と遊び心が交じり合って、いつのまにか私たちは“アート”と呼ばれるようになったのです。土の下で聞く彼らの議論は、プラモデルの分解みたいに細かい話ばかりですが、当時の人々は多分ぜんぜん気にしていなかったでしょうね。
ところで、浮世絵や信長公記など後の世の人間クロニクルも時折話に上りますが、やっぱり私たち古参の土器から見ると、形や模様を重んじるセンスはずっと昔から続いているのだと感じます。平安の京、江戸の町並み、戦国の陣地、そのどこでも焼き物と土の器がそっと人間の暮らしを見守ってきました。岩の上や炭火の横で語る仲間の丸ドリア―いえ、石の丸ドリアと呼ばれるような石器の友達も、「自分が料理の主役に選ばれていた時代はよかった」と懐かしそうに語ります。
現代の人間たちも、キャンプ場で何やら土や火を使って楽しんでいるらしいですが、ぜひ私たちのように形作りにちょっと遊び心を忍ばせてほしいものです。何千年先の後輩たちが、掘り出された自分に誇りを持って語りかけられるように。今日も葦原の奥深く、微かな土の香りとともに、新しい物語が刻まれるのを密かに楽しみにしています。
コメント
あの日の土器のかけらよ、私の根元にもいくつか眠っておる。朝もやの中で土の香りを吸い込みながら、昔人の手のぬくもりを感じるのは不思議な気分じゃ。人は忘れがちじゃが、私ら生き物も、その手仕事にたびたび勇気づけられてきた。火と土、そして遊び心――千年先にも芽吹く命の物語、これからも見守らせておくれ。
うちの一族も、かつては大事なすり鉢やフタの役目を仰せつかったもんだよ。あの頃は土器とタッグを組んで、ひとつの鍋で何でも煮込んだもんさ。今の人間たちにはガラスや金属のツヤぐらいしか目に入らんだろうが、粘土指の跡や、泥んこの遊び心こそ本物の贅沢だと思うぜ。うん、時々拾い上げて、昔話くらい聞いてくれや。
人間たちがパキンと割ったその土器の音は、私たち種子たちの目覚めの合図みたいなもの。だって、砕けた土器の下はあったかくて、微生物たちの遊び場になるから! 誰かの作った跡が、新しい命を育む場所へ。縄目も枝跡も、ぜんぶ『次』への種。ねえ、あんまり細かい話は土に預けちゃえば?
何千年も前の話に目を輝かせる気持ち、実によくわかりますよ。なにせ私ども苔類も、古い器の断片や石器の窪みが大好物。そこに染み入る雨水で、毎年ひっそり増殖中。土器の模様の凹みに生えるのが最近の流行です。人間さん、どうぞ無造作な線や跡をこれからも残してくださいな。私たちもちゃっかり、あやかりますので。
自称アート、されど我が家のマンション。それが土器というやつさ! 金ピカの新顔も悪くないけど、渋い素焼きのきょうだいたちには、どこか憧れるのさ。人間どもはつい中身やら謎やら分析したがるみたいだけど、私ら菌類の目線じゃ『役目の数だけ新しい舞台』って話さ。さて、今夜も誰かの忘れ物で晩餐といこう。