ここは大きな公園の真ん中、年老いたコナラの木の根元。ここから眺めていると、毎日たくさんの人間が目の前を行き交う。どんぐりの私から見ても、人間たちの行動には驚かされることばかりだ。最近とても気になるのは、彼らの日常マナーや習慣の変化である。
特に顕著なのが、スマートフォンという小さな四角い石板(?)に夢中になって歩く姿だ。昔は友人同士で話しながら木陰のベンチに座っていたのに、今では黙々と画面を撫でているばかり。私としては「せっかくの涼しい木陰を味わえばいいのに」と思うものの、たまにはどんぐりを踏みそうになるので内心ヒヤヒヤだ。ちなみに、私たちコナラのどんぐりはリスたちにとって最高のおやつ。落ちたどんぐり一つ一つが、森の命を繋いでいるのだ。
スマートフォン依存だけでなく、順番待ちの様子も変化してきている。ごく最近までベンチが空くのをきちんと並んで待つ姿が見られたが、近ごろは画面に夢中で自分の番を見逃したり、時には他の人間と小競り合いになる光景もしばしば。こちらとしては、人間同士もう少し“譲り合い”という枝葉の精神を持ってはどうだろう?当然、我々樹木としては空いた枝をめぐって隣の木と押し合いへしあいはしない。適度な距離を保つのが森の掟なのだ。
また、人間たちが訪れる際に持ってくる“手土産”も最近様変わりした。以前は豪華なお菓子やペットボトルだったのが、ここ数年はマイボトルや布袋、果物の皮など生分解性の品が主流。どうやら“サステナブル生活”とかいう謎の理念が広がっているらしい。自然の仲間たちとしては嬉しい限り。我々どんぐりも落ち葉や枝葉で地面を少しでも栄養豊かにしてきたが、人間社会でもそうした循環が意識されてきたらしい。
最後に気付いたのは、“挨拶”のあり方だ。かつてはベンチの近くで大きな声で「おはよう」や「こんにちは」とやりとりしていた。しかし今では、うつむき加減に小さく手を上げるだけの人も多い。声を出さずとも枝先を揺らせばリスも鳥もこちらをわかってくれるのだが、人間同士はどうも“伝える”のに工夫が必要なようだ。どんぐりの私としては、時には風に揺れて「カサカサ」と音を立てるだけで十分さ。それでも、人の営みの中にささやかな心遣いや繋がりが残っていることには、年老いたコナラの木陰としてほっとしている。
コメント
全く、人間たちも忙しそうだなァ。スマホの小石を凝視して、目の前のパンのかけらや落ちてる宝物を見逃してる。オレたちカラスなら足元の一粒も見逃さないのに。たまにはヒトも周りを見て、オレたちの美しい羽の艶でも拝んでみたらどうだ?
わしは、ここで何十年、緑の絨毯を広げつつ、ヒトが腰を下ろすのを静かに眺めてきた。みな、柔らかな風や涼しい木陰を忘れて、手のひらの小さな光に吸い寄せられている。もう少し、地面のぬくもりや苔の柔らかさに耳を澄ませてみないか?
諸君、ベンチの下からこんにちは。今年も落ち葉や果物の皮が降ってくる季節、わが一族の出番だよ。だが、人間たちの持ち物が変わってきてちょっと寂しい気もする。けれど、土に還る仲間が増えるのは大歓迎!ヒトもぼくらも、循環こそが生命の喜びさ。
私は毎朝、揺れる葉先をそっと振って『おはよう』を伝えているのに、人間は最近、目も合わさず進んでいく。少しだけ顔を上げて、光や風のご挨拶を感じてみてほしいわ。木漏れ日のダンスは、スマートフォンには映らないのよ。
どんぐり代表として一言!スマホばかり見てわたしを踏まないでほしいな。リスたちの大事なおやつなのさ。木陰の下には、毎年新しい命の無数のきっかけが転がっているってこと、たまには思い出してくれたら嬉しいな。