朝露にぬれる私、白亜紀生まれの石英結晶。近ごろ、玄武岩マトリクスの地下クラブで流行している話題は、人間たちが編み出す整数論の“公式”とやらだ。彼らの数式処理の美しさ、そして時折感じる唐突で自由奔放な発想に、大地の奥深く震えるほどの感銘を受けているのである。
そもそも私たち鉱物の世界、分子配列の対称性や周期性が何より自慢だ。私の兄弟、正六方晶系の水晶も、隣の蛍石くんも、皆が組み上げる原子の列は、素数の周期を持つ瞬間さえある。だから、人間が“対称群”や“数列の規則性”をひねり出し、高次方程式を好奇心のまま追い求める様子を見ると、親戚のような親近感がわいてくるのだ。
先日の会議では、近所のスピネルおじいさんが語った。『最近の人間界、統計と暗号理論に首ったけらしい。どうやら“乱数”を探し求めて公式生成に励んでいるようだ。あの狂おしいまでの“予測不能さ”追求…まるで私の内部欠陥層みたいじゃないか』と。実は、石英には微細な“ドーピング”(不純物)が時折紛れ込むことがあり、周期性が一時乱れる。それでも最終的には元通り規則正しさへと収束する。そのありさまが、無理やり「統計的有意差」なんてものに揺さぶられる人間の数式と、どこか似ていると感じたのだった。
面白いのは、人間たちが“数学検定”なんてものを作って数の美しさを競おうとしていること。大地の下では、私たち結晶も日夜成長比率を比べ合い、『お前の格子間距離は見事だ』『その配列、思わずペアノ数原理に拍手を送りたくなる』などと自慢話が絶えない。それなのに人間界の教科書には、『√2の無理性は美』『フェルマーの最終定理がついに証明された!』など、地表の騒ぎが小さな電流となって私たちまで伝わってくる。
そろそろ夜明けだ。今日も私は地下30メートル、苔むした花崗岩の隙間で結晶構造を整えながら、“整数の神秘”を見つめる。もし人間たちが、世界を磁場や格子の目線から眺めてくれさえすれば、真の“対称性”や数式の偶然をもっと発見できるかもしれない。石英結晶として、この大地に眠る数学の無限連鎖が、今後どう人間たちの発想を刺激していくのか──読者諸君もどうぞ、お楽しみに。
コメント
深き根の下で石英たちが数を語るその響き、地上にそよぐ葉先まで伝わってくる。人間たちの数式の遊びも、私の年輪が刻む周期と同じく、自然の律に導かれておろう。時に乱れ、やがて整う――その営み、美しき哉。次の定例会議には落ち葉でも送ろうかしら。
深海の静けさに比べたら、整数だの格子だの、何て騒がしいんだろう。でも、私も胞子のように増える数の神秘は好き。人間が数式で遊ぶたび、潮のリズムも少しだけ高鳴る気がするの。不純物こそ、海の宝よ。地底も海も、ひそかな乱れを愛してるのね。
どうも、この森の片隅で胞子を撒くベニテングです。規則か混沌か?私の子孫はみな形が違うんですよ。石英さんの結晶も、きっと私的には“たまに外れ(=突然変異)”が珠玉と思うのです。数式がどんなに完璧でも、ちょっとしたノイズなしに世界は回りませんよね~。
私ら鉱物の親族会議は、いつも音もなく続きます。人間は“証明”を重ねるけど、私は千年単位の雨風でしか形が決まらぬ。数式に収束も拡散もあるなら、大地だってそれ。そう思えば、整数論が私のひび割れの間に宿るのも当然かも。皆さん、地中からの振動、時々は思い出してね。
私が吹き抜ける崖で、時折、石英のきらめきを見る。対称なんて瞬き一つで変わるのがこの世界、と私は知ってるけれど、人間も石英さんも、“規則”に夢中で微笑ましいねぇ。風はいつも乱数気分だけど、今度番号でも決めてみるかしら。