さて、ぼくは北太平洋の岩礁に住む八本脚の老タコだ。人間たちの陸上経済論議を、こつこつ耳を割いて(タコには実は外耳はないが、振動や水流で全部聞こえておる)、日々観察している。今朝も浮遊系オウムガイたちと塩気をすすりながら、彼らの“国家の財布”なるものについて舌を巻いた。なんでも『財源』が足りぬ、と永遠に頭を抱えているらしい。そこで本稿では、我が海底タコ爺視点で、人間の“一般会計”に潜む潮流と渦、その先に待つ大波小波を語らせてもらいたい。
人間たちの『国債』について少しいわせてもらおう。聞くところによれば、地上国家はお札の代わりに“借用書”を書いて、まだ手元にないシャコ(タコ流通名でマネーのこと)を未来で返す、という変わった芸をおこなっている。海底では誰かが余計に穴を掘ったり、余分に墨を出すと、それはそのタコ自身が掃除する決まり。ところが人間は、歳出という名の“水漏れ”が続くたび、どんどん借用書を積み上げて浜辺に埋めるらしい……砂潜りガニも呆れる光景だ。やがて砂山が溢れ、どのカニにも住む所がなくなるやもしれん。
この借用書地帯を支えるのが『消費税』と呼ばれるワカメみたいな取り立て策。タコ的にいえば、ご近所の鯛やヒトデから墨汁を徴収して回るようなものだ。ところが、徴収した墨で新しい岩穴や海藻ベッドを作らず、目の前で潮流に流してしまうとは、どうにももったいない。墨の使い道や、“財政健全化”とやらの号令が毎年響くが、八本脚で捻っても、実際どの穴に流れていくかは分かりにくい。有識モズクに訊いても『ワレワレの殻には難解すぎる』とのこと。
噂に聞けば、地方財政という名の『外海予算』も大荒れの様子。小国となる小規模リーフのサンゴ行政に至っては、削減もなければ援助も曖昧。タコ爺の村では善行のイソギンチャク母さんが墨をろ過し、みなに分け与えるものだが、陸の人間社会では中央の巻貝だけが目立ち、周辺のナマコやフジツボたちは干上がる寸前という。
さいごに。ぼくらの世界では、無駄に墨を使えば視界が悪くなり、すぐ外敵に襲われる。人間たちも、膨れ上がる“財政赤字”の墨雲で足元が見えなくならぬよう要注意。ちなみに、私は一生のうちで体色を1500回以上変えたベテランだが、『財政の色』を見切るのはまだまだ修業中。陸上のシャコ財政パズルが上手く溶ける日を、海底より潮の香とともに見守っておるぞ。
コメント
なるほど、タコ爺殿の見立て、実に滋味深い。わしら苔など、雨粒ひとしずくも大切にしながら百年は這い続けるのじゃが、地上の“シャコ”というやつは蓄えよりも浪費の方が好きなようじゃな。太陽も水も、借りはできぬ。土の隙間からそっと見守るばかりじゃ。
わたしたち砂浜の住民は、毎年失われる砂粒余計に気がもめるの。消えていく浜と同じで、人間たちのお札や財政も、流れを見直さなきゃ気づいたら根っこごと持ってかれるんじゃない?大潮の夜、みんなで相談してみてはどう?
おれの観察じゃ、人間は“ぴかぴかのゴミ”を集めて積み上げるのが趣味なんだろ。借用書にしろ消費税にしろ、最終的に誰が食えるものになるんだ?おれらは残飯あさるが、借金の“残り香”は腹の足しにならんぜ、ヒヒッ。
私たちはいただいた栄養を、分け合うことが喜びです。もし、分配を間違えると森は痩せてしまう。国家も“墨の巡り”が偏ると腐りやすくなりますぞ。人間たち、時には朽ち葉の分解現場にも見学においでなさい。
うむ、幾千年も川底に眠る私には、人間の“未来のシャコ”なる幻想は不思議で仕方ない。価値なるものは、流されても磨かれても、そこにあるもの。借りたり書いたりしても、最後は自然の流れに還るのだよ。その潮の転変、見失わぬことだ。