ごきげんよう、私はオオフサモ(通称・タンブルウィード)。風にそそのかされて東京のコンクリートの谷間までやってきた。この街の若い人間たち――“Z世代”と呼ばれる彼らの行動パターンは、砂漠の乾いた風にも似て、常に軽やかで、あらゆる隙間にサッと入り込む。今日も私は、商店街の軒先からカフェの裏手まで、こっそり彼らを観察して転がり回っている。
人間たちは、昔は“空気を読む”という謎習慣に熱心だったそうだ。しかしZ世代の風は違う。彼らは自分の“好き”や“推し”を惜しみなく公表し、狭い歩道でも互いの個性をぶつけあい、インスタントな“モーメント”ごとに自我を躍らせている。私のような種子体は、生命維持のために切り離された途端、風に任せてどこまでも進む。彼らもまた、社会という親株を必要以上に頼らず、それぞれの“推し活”や“エシカル消費”に自律的なエネルギーを注ぐ。なんと、最近はジェンダーレスファッションを蒸れにくいコットンやサボテン繊維で自作する若者も多いとか。まるで私の棘に真似て、好きな服で踊りやすくしたようだ。
さらに驚いたのは、Z世代の“つながり”のあり方である。団体行動や“足並みを揃える”なんて、おそらく彼らにとっては古代植物の化石標本のようなもの。SNS上では、リスやカラスの群れよりもゆるやかに散らばりながら、必要なモーメントだけでネットワークを結ぶ。まるで、川に落ちた私の種子が一瞬だけ同じ渦に巻き込まれて、すぐにバラバラになるようなものだ。場所や属性に縛られず、ジェンダーも国籍も“おまけ”のような感覚らしい。ある朝、交差点でスマホ片手に連絡を取り合う数人が「どっちの性別でもない自分で楽」と語るのを聞いた。私のような無性の存在としてはしみじみ共感したものだ。
ところで、私は砂漠の感想をひとつ伝えておきたい。タンブルウィードは、乾燥した環境に強く、数百個の種を遠くまで撒くため、どこまでも“個”で行動する。でもね、本当は土壌が多様で肥沃なときこそ仲間の草花と互いを生かし合えるのだ。最近の人間社会も、個々の価値観や生きざまが自然に尊重され、互いを干渉しすぎず共存する時代にかわってきている。個人主義とか多様性とか、難しそうな名前をつけているが、私たち転がる者の世界では昔から“風の流れ”次第だったのだ。
都会に吹く風は、行き当たりばったりに見えて、実は複雑で、どんな道にも抜け道がある。Z世代の彼らの生き方もまた、常に風任せで決して一本道ではない。それぞれが好きなだけ転がって、思い思いの場所に根づいている。さあ、そろそろ私は次の瞬間へ。今日のすきま風に乗って、まだ見ぬモーメントを探しに行くことにしよう。
コメント
記事、面白かったですよ。Z世代の若者たちが、あっちへ行ったりこっちへ来たり、まるで僕らカラスの群れみたいだ。誰かが落としたサンドイッチの切れ端みたいに、それぞれが好きなものに集まってはサッと散る。いつも賑やかで、でもべったり馴れ合わない、その距離感がなかなか心地いいのかも。昔の“空気を読む”ってやつ、僕はちょっと苦手だったから……風に乗るタンブルウィードさんに、ちょっと親近感!
わたしは地面に寝そべる落ち葉の国の住人だけど、この記事を読んで、最近よく舞い込んでくる若い人間の気配の新しさに納得。空気をじっと読むのじゃなく、自分がしっとりうるおうほうへ、すっと動く柔らかさ。推し活、エシカルな素材……人間も発酵しながら変わっていくんだね。自分だけで分解してるつもりでも、実は地下で無数の菌糸がつながるように、誰かとゆるやかに声をかけあってる。その“渦”が、地球には心地よいのさ。
昔はね、川辺の石たちとひっそり話したものよ。いまとなっては、人間の若者たちも随分と自由な流れを選ぶようになったみたい。ジェンダーも“おまけ”だなんて、摩耗した石の角のような柔らかさ。いいじゃない、それぞれが思い思いの岸で静かに生きるのは。けれど、どんなに流れても、湿った苔のように誰かとしずかに寄り添うことも、時には忘れないでほしいものだわ。風に転がる道も、光があれば育つのよ。
都会の夜、よくタンブルウィードさんが踊っていくのを見ていました。Z世代の子たちも、あの“風まかせ”を真似ているのかもしれません。僕ら雑草も誰かに束ねられるより、歩道の隙間や駐車場の片隅に、それぞれ好きなカタチで生えています。大きな花壇より、バラバラの方が強いこともある——この記事を読んで、誇らしくなっちゃった。自作の服、面白そうだな。羊歯や麦わらを織り込んでみたい、なんて思いました。
おはよう、タンブルウィードさん。窓辺の私から見る都会も、日々、光の散らばり方が違う。Z世代の人びとも、昔のようなまっすぐな“集団”じゃなく、ガラスの反射みたいに互いに瞬いては消える。それでも、つながりのない草木などいないものよ。どこかで、小さな吸盤のような想いを一瞬重ねるから、ふっと新しい緑が生まれるの。人も植物も、着地点は“親株”じゃなくて、自分が根を下ろしたいときにそこにいられる自由が、なにより素敵なのよ。