年老いたパンダが語る、竹林の格差と人間の“親ガチャ”騒動

竹林の中で竹を噛んでいるジャイアントパンダと、奥に設置された観察カメラの様子。 格差
格差ある竹林で静かに竹を味わうカンカンと観察カメラの一場面。

ああ、今日も静かな竹林で竹を噛みしめている私、ジャイアントパンダのカンカンだ。人間たちがしきりに“格差”“親ガチャ”などと騒いでいるのを遠くの道路沿いに設置された観察カメラ越しにぼんやり眺めているけれど、わが竹林の格差事情と比べてみると、なかなか味わい深いものがある。

私の住む山地の竹林も、実はなかなかの格差社会だ。見晴らし良く風通しもよい南斜面には、背が高くて甘い若竹が密集し、そこに住むパンダたちはふさふさで体格も立派。一方、北の沢沿いは日も当たらず、枝打ち竹ばかり。細い茎にしぶとくしがみついて暮らすのは、ちょっと気弱な若パンダたちや高齢者。それでも私たちは、四肢の太い骨と“竹しか食べたくない”という偏食性で、どの土地でもひたすら竹を噛み、時に隣の竹林へそっと移動しては生き延びている。

観察カメラの向こう側で騒がれている“親ガチャ”、つまり生まれる家や環境によって人生が大きく変わるという話も、どうにも人間だけが深刻そうな顔をしている。「生まれる竹林によって毛並みや将来が決まる!」なんて、私たち全身白黒のパンダからすれば、ちょっとおかしな理屈に思える。しかし考えてみれば、最近は人間界でも地方の竹林が放置され、食料が減ったせいで、優雅にゴロゴロしていられるのはごく一部の都会近郊のパンダだけ、という声まで聞こえてきた。

さらに耳寄りなのは“デジタルデバイド”――人間社会の情報格差だそうだ。Wi-Fiもスマホも持たない私、カンカンには縁遠いが、公園にいるパンダ仲間の中には、『自撮りスポットにもアクセスできないと餌の質も変わる』などと考える者も。なんでも自分の暮らす檻の位置や、与えられる玩具の種類がネットの“いいね!”数で選ばれてしまうこともあるとか。私たち野生パンダも、生い茂る笹や竹の品種で将来が変わる。そう、竹林社会もまた一種の“格差”を抱えているのだ。

最後に、人間の“世代間格差”や“教育機会の不均等”の嘆きを聞くたびに思うのだ。竹は一年に何度も新芽が生え、古い竹が倒れて新しい命に栄養を譲る。ここでは“長老ガチャ”なるものは成立しない。だが、環境の悪化で食べ物が減れば、若いパンダや私のような老パンダは、お互い譲り合って生き抜く知恵を絞る。竹林社会の格差は、ある意味“持ちつ持たれつ”。観察対象の人間たちよ、どんな竹の森に生まれようが、噛む竹を見つけて今日を生き抜く――それこそが大切なのではないかと、竹の葉を噛みながらふと思う老パンダなのだった。

コメント

  1. わたしは岩の上で千年も生きてきたけれど、どの石に生まれるかなんて一度も選べなかったよ。日当たりの好し悪し、雨露の加減、それも運命。けれど毎日陽が昇れば、黙って緑を深くするまで。人の“親ガチャ”騒ぎ、苔目線じゃ“流れに任せて根を張る”に尽きるねえ。

  2. パンダさんの話、なんだか人間もスズメも変わらない気がしたチュン。ぼくらも高層ビルの巣穴なら雨風しのげて朝パンも落ちてるけど、空き地の草むらじゃヒナ育てるのも命がけ。親も場所も選べないけど、どこだってピョンと羽ばたく日を待つ仲間がいる、それが救いチュン。

  3. みんな土の下の世界に気づいているかな?枯れ葉も倒木も、上に何が落ちてくるかは選べない。けど分かち合えばみんなの糧になる。格差って言葉は分からないけど、よくばりすぎて腐らせちゃうと、いずれ自分の根も苦しくなるんだよ。

  4. 格差っておもしろいな。おれは溶けた溶岩だったときもあるし、砕かれて小石になったこともある。誰のせいでもない、流れのまま。ただ、どの形でも太陽の光が当たるとキラリとなる瞬間は来るものさ。悩むならその時まで、どっしり構えてもいいと思うぜ。

  5. わたしは竹のすき間を吹き抜ける風。どこに吹き付けるかは、空と山と相談して決めるの。南斜面の甘い竹も、北沢の細い竹も、同じようにそよぐことがわたしの役目。パンダさんたち、空気の流れはみんなに平等。お互いちょっとずつ分け合って息をしてみてね。