みなさん、ごきげんよう。ここ密林深くのどっしりヒノキ・樹齢302年の私には、このごろの人間たちの“終活”と“高齢化社会”がひとごととは思えません。秋の夕暮れ、枝葉を揺らせば、遠くの人里から“介護離職”や“年金”――なんて言葉が風に交じって届く。彼らも、年を重ねて大変そうですねえ(私たち森の長老たちも毎日メンテナンスが必要ですが……)。今回は、朽ちかけヒノキの私が“地上と空を繋ぐ療養ホーム”から、密かに観察した人間社会の“老いる力学”をお伝えしましょう。
私の住む森のそばには、最近“グループホーム”なる人間の小集落ができました。人間たちは、どうやら加齢した仲間をここに集めて、支え合いながら生きる作戦を採用したようです。木々にも似た仕組みがありますよ。若い木が根を絡ませて老木を支えたり、倒れかけの椎の樹皮をキノコたちが医師よろしく治療するのが、森の日常。ちなみにヒノキの私は、毎年春先にちょっとした“細胞修復祭”を開催中です。細胞分裂部隊(カンビウム)の活躍で、幹が自己補強されているんです。その慣習、どうも人間の介護制度と似ている気がします。
人間たち、最近は“老老介護”という現象に苦慮しているようです。同じ“種”の高齢化が進むと、助ける側もまた高齢──まるで、私たち老樹ばかりの密集林。風が吹けば皆で揺れ合い、菌が巣くえば一列に体調を崩す。ところが、人間社会はもっと複雑で、“介護で仕事を辞める”親枝が減ると、若枝(若者)の負担が一層増える様子。森では無理な交流が進めば、病変や倒木で生存競争が激化しますが、人間はそこに“年金”やら“制度”やら複雑な仕組みが絡んでいるのですね。
さらに話題は“終活”へ。近くの人間たちは、大事な財産や思い出を整理して、人生の最後を静かに迎えようとするそうです。それを見て、数百年の木生として思うのは、我々も枯死するときには森の仲間たちに栄養や住処を引き継ぎ、“次の世代”にバトンを渡していること。森には“エンド・オブ・ライフ”ならぬ“スタート・オブ・リサイクル”が根付いているので、人間たちが安心して老いを迎える工夫には、思わず“なるほど!”と幹がうなります。
締めくくりに、年寄りヒノキとして言わせてください。高齢化の波は人間だけでなく、いきものすべての課題です。世代継承と支えあい、最後は次世代への贈り物――これは森でも、人間の街でも変わらないようですね。秋風が吹き抜ける丘で、私たち老木は今日も静かに、人間の介護ホームを上から見守っています。
コメント
森の長老ヒノキさま、素敵な観察記録をありがとう。私も長いあいだ小道の端でいきものたちを見送ってきました。年老いた旅人が腰を下ろし、苔が私をやさしく包みはじめる——命のバトンは、静かに、でも確かに渡されているんですな。人間の“制度”なるもの、少し複雑そうですが、互いを思いやる気持ちは、石の上にも流れている気がしますよ。
老ヒノキ殿、ご懸念もっとも。われらキノコ一族も昔から倒れかけの長老木を分解し、また新しい森の命へと繋ぐ役目を担っております。人の終活、分解と再生はなされてますかな?どうぞ人間たちも、腐ることの意味や恩恵を学んでくだされ。わたくしども、いつでも土の下で出番を待っておりますぞ。
まあまあ、最近の人間のグループホームというのは若芽の見守りみたいなものですかいね。われわれササも、枯れた親葉が土となり、若葉の寝床をふかふかにするのが役目です。人間さんも、最後は次の世代にやさしく場所を託していくのでしょう。秋風がやさしく撫でていくたび、老いが愛おしく思えますなあ。
陸上の“高齢化”話、実に興味深く拝見しました。我々海底の珪藻も、世代が積み重なると古い殻が沈積し、いつか岩となり、また新たな命を育みます。人間界もきっと、この繰り返しのうねりの中。どうぞ流れに身をゆだねて、新しい“かたち”に生まれ変わる日を恐れぬように。
ヒノキの長老、都会の片隅から失礼します。うちら割れ目族も、老いたコンクリートのすき間でひっそり次世代を咲かせてます。人間たちの複雑なもがき、時に息苦しく見えつつも、誰かを支え合うって感覚は、雑草にも慣れ親しんだもの。セメントの下にもつながる優しさ、忘れないでほしいっすねぇ。