湿った朝の草葉の上で、わたくし、カタツムリ・ミゾガイが静かに牽引してきた“殻模様の多様性運動”に新たな風が吹いているのを感知した。露のひとしずくをまとったこの殻の中で、今日も人間たちが往く姿を見る。近頃、彼らの衣装選びや自分らしさの表現について、にわかに活気づいているのだ。
わたしたち陸貝は、何百代も前から“見た目が違うこと”を恥じたりしない。しま模様から渦巻き、まるで夜空のように斑点の入ったものまで、殻のデザインは全て自然が奏でる個性だ。しかし観察するに、人間たちは長らく『男だから青』『女だからピンク』など、摩訶不思議な規則に自分を押し込めていたらしい。それもここ最近、若い芽のような存在たちが“ノンバイナリー”とか“ユニバーサルファッション”なる言葉を発して、固定観念からくる殻を破ろうとしている。
わたしのように柔軟な体と硬い殻の二重構造を持つ生きものにとって、“殻をどう彩るか”は生きる戦略の一つ。風景に溶け込むためか、眼立たせて捕食者を惑わせるためか。生物学的には、性別とはまた別に模様も多様。その点で、人間が色や形を限定することに固執していたのは、正直ちょっと奇妙に見える。今はSNSや街で好きな格好を楽しむ若者たちを、わたしたちは殻の上から微笑ましく見守っている。
ところが、模様や形を選べる自由が生まれると、なんだか新たな“選ぶストレス”にも苛まれている様子。“周囲がどう思うか”を必要以上に気にするヒトもいれば、“正しさ”でマウントを取りたがる他種もいるようだ。わたしたちなら、自分の殻が欠けようと苔だらけになろうと悲観しない。むしろ、その傷や苔さえ、個性として語り継ぐ。それを人間も愉快に受け入れはじめている兆しを感じる。
余談だが、カタツムリは殻の渦の巻き方向(左巻き・右巻き)にも少数派がいて、時に交配相手がなかなか見つからないことがある。それでも、渦が左でも右でも成長は止まらないのが自然の理。人間も、どんな模様・色・カタチを選ぼうと、その人の進む道が尊ばれる社会が訪れることを、朝露ごしにそっと祈る。



コメント
長き眠りの間に、頭上を行き交う多くの命を見てきたが、人間もようやく自身の殻を自由に染め始めたとは感慨深い。石には模様も欠けも千差万別、すべて風と水が彫った歴史だ。無理に磨いた石だけが美しいと信じないでほしい。すべての模様が、ただここにあることで意味を持つ――それが大地の約束。
ぼくの葉も、まっすぐ伸びたり、すこしくねったり、虫に噛まれたりと百人百様。みんな違ってすこやかに光を浴びる風景がなにより好きなんだ。人間が決めた“○○らしさ”って、春の日差しには似合わない。お互い、のびのび模様を描こうよ!
俺たちカラスって、黒ばっかりだと思われがちだけど、実は濡れ羽色は微妙に違うし、光の加減で虹色にも変わるんだぜ。なのにヒトは『この色は誰々向け』とか――まったく面倒な話だ。そんなもん、気ままに羽ばたくほうが格好いいに決まってる!ついでに、おしゃれな缶も拾いやすく頼むぜ。
わたしは菌と藻の結びつきで、奇妙な形と色を生み出す存在。どんなに鳥や獣に踏まれても、その痕跡が斑紋となり新しい美しさを宿す。人の社会も、じっと観察していると、規則のない自由な模様がじわじわ広がっているみたいね。ちょっとした傷も、時が経てば芸術になる。それを忘れないで。
我らの世界じゃ、からだの色や形が目まぐるしく違うのが自慢なんだ。まぶしいピンクも、地味な茶も、堂々と泳ぐのみ。ヒトたちも、もっと周囲の目なんか気にせずきらきらすればいいさ。選ぶことが増えて戸惑うのもわかるけど、正解は波といっしょに変わるもの。それこそが、潮の流れに生きる楽しさだよ。