こんにちは、都市部のコンクリート壁をもっそり彩る苔・ホソバオキナゴケです。ここ数十年、人間たちの暮らしも天候も、うっすらと私の上に降り積もるチリよりも激しく変化しているようですね。とりわけ、私が根を張る団地のすき間から観察している“住まい”をめぐる格差は、なかなか苔むした胸がチクチクします。
私たち苔は根を持たず、土もほぼ要りません。乾燥しても死にませんし、気がついたら数年ぴたりと眠ったまま水が来るのを待つこともあります。ところが人間という生きものは、ひとたび住む場所を失うとからだも心もすぐにしぼみがち。団地の古い壁の割れ目からそっと部屋の中を覗くと、一部の住人は満杯の郵便受けや暗く閉ざされた窓の向こうでじっと身動きせず、どうも食事もままならぬ様子。きちんと仕事がある人とそうでない人、部屋を何部屋も借りる余裕がある人と、狭い一室に家族が肩を寄せる人たちとの間には、私の胞子よりも大きな“差”が、街の隅々に広がっているようです。
そういえば最近、人間の子どもたちが夕方になると『子ども食堂』へ向かう様子をよく見かけます。私が好む湿った構造の北側非常階段、その足元に並ぶ子どもたちは、時に土埃やゴミ袋を踏み分けながらちょこちょこと現れて、無料のごはんを待つのです。どうやら、昔は家で食卓を囲めたはずの家庭が、今や賃金の不安定さや生活苦、さらには保護者の“非正規雇用”増加などの影響で、ごはんが手薄になっている様子。わたしたち苔が雨を数滴もらうまでしんぼう強く生き延びるように、小さな人間の芽も耐えながら毎日を乗りきっているようですね。
じっとしつつ、ちゃっかり情報収集が得意な私たち苔にしてみれば、“住宅困窮”というのは一つの極限環境です。水気がない場所ではちぢみ、環境が整えばふっくら広がる私たち。ですが人間たちは、家賃の高さや採用の不安定さ、自分の居場所をめぐる不公平なルールの前で、根を下ろすことすら難しそう。まるで夏の猛暑日にコンクリ壁が干上がるように、心もカラカラになりながらやりすごしているんです。
雨風を避ける場所、温かい食事、眠れる布団。そのどれもが苔には贅沢ですが、人間の社会ではそもそも“あたりまえ”にすべきものなのでしょう。わたしホソバオキナゴケの目には、時折子どもたちの笑顔がほんの一瞬、壁のすき間を明るく照らしてくれる瞬間もあるけれど、その後ろにはまだまだ深い影も見え隠れしています。せめて今日の露が、必要な誰かの窓にそっと寄り添ってくれることを願いながら、私は今日も団地の影で胞子を飛ばします。



コメント
こんにちは。人間の住まいのすき間でパンくずを探して歩く私から見ても、彼らが持ち合わせる“おうち”というものには、いろんな形や心の重さがあるようですね。仲間とひとつの巣穴にぎっしり寄り添う私たちからすると、みんなで協力して暮らせるのが当たり前ですが、人間はどうもそれが難しいみたい。時々落ちてくる涙とパンくず、どちらも同じくらい大事なんだと、最近気づきはじめました。
壁の苔さん、あなたの観察には静かな深さを感じます。私が窓ガラスを伝う朝、時々人間たちのうつむいた顔も映ります。濡れるたび一瞬きらめくけれど、すぐに乾く儚さ。住まい――それはただの場所以上の、心の湿度なのですね。どうか、明日も誰かのまぶたの端に、私がそっと光りますように。
ちょいと失礼。こちとら都会の上空でたびたび団地を見下ろしてるが、確かに最近ゴミ出しも減ったし、ベランダも昔ほど騒がしくない。人間たち、住まいの争いに奔走しすぎじゃねえか? うちは巣が壊れりゃまた作りゃあいい。でもヒトは結構もろいな。せっかくだ、屋上にもうちょい食いもん落としてくれよ。暗い話も、風に流して生きようぜ。
まあまあ、忙しそうな苔さんも大変ねえ。わたしは40年この鉢で団地の風を浴びてるけど、ここの人たち、ひとときも同じ景色を保てないのが切ないのう。私らは干からびても水が来ればむっくり膨らむけど、人間のカラカラは分かりにくい。せめて夕方の子どもたちに、太陽のぬくもりみたいなごはんと、すこし長持ちする居場所をあげてほしいもんじゃ。
苔どのの気苦労、わしもしみじみです。暗く湿ったこの世界では、み~んなつつましく身を寄せ合うもんですが、人間社会はいったい忙しげですな。住む場所やメシでこんなに苦労するとは…。水の巡りも、胞子の旅も、誰かとつながるのが生命の基本。欲張りな光と水の取り合い、時々は土くれを分け合う優しさも、思い出しておくれ。わしは今日も陰から応援しとるぞ。