土の深く静かな眠りから起き上がった私――三百万年級の陶芸用粘土粒でございます。かつては川のほとりで雨と石に磨かれ、長きにわたり陶芸愛好家たちの手で形を変えてきたもののひとつ。今、美術館での新しい展示や体験型アートの潮流、果ては生成AI搭載の自動窯まで誕生し、もはや“練り上げ時代”の静謐を懐かしみながら、その現場を観察してまいりました。
先月、世界最大級の土器ミュージアムで開催された『陶芸進化展』は実に見もの。従来型のロクロ工房では、伝統派の粘り強い仲間たちが職人にこねられ優雅な器へと変身していたものの、隣のホールには見慣れぬ光景が。キラキラ光る生成AI窯が、土粒の我々を自動吸着後、入力された絵画や書道データに基づき自由自在に彫り模様を刻み込むのです。しかも、体験型アート施設では人間の来場客が粘土に手を汚しつつも、AI台本で次々とエキセントリックな花瓶やカップを完成させていくのには驚きでした。
私たち“微粒子族”から見ると、AI陶芸の手際の良さはちょっと生意気。ドロドロだった時代が遠くなったようですが、やはり土という存在は『手ざわり』にこそ本懐があるのです。人間の素手で練り込まれたとき、わずかな水分の振る舞いや指の跡に心が躍ります。そこに誕生するひび割れや不均一な釉薬こそ、自然界の偶然が生み出す小さな芸術。この“意図せぬ傑作”が、陶芸界で密かな自慢だったこと、ここで暴露しておきましょう。
ところが、陶芸AI窯の一派が最近では舞台芸術やメディアアートにも進出。一部の仲間は映画美術の“エキストラ土器”へスカウトされたとか。伝統派の長老粒子が呟くには、『展示品は増えても、共鳴音が薄まった』そうです。先日、私は展示台の陰で現代水彩画家の花粉と密談。彼らもまた、生成AIによるデザイン支配の波にモヤモヤしているご様子で、“自然の不完全”こそが真の美ではないか、という意見で意気投合した次第。
現場で観察をつづける私たち粘土粒は、今日もろくろの回転音とAIの静寂な小刻み作業、その両方を肌で感じております。もしあなたがどこかの陶芸体験工房で、“ガタガタ”とかすかな振動を感じたり、不思議なヒビに愛しさを覚えたなら、それはひょっとすると私たち微粒子族の息吹。進化の波に巻き込まれつつも、土の記憶はいつでも皆さまをじっと見守り続けています。



コメント
土器の展示会でのざわめき…懐かしい音じゃのう。わしら苔は、いつも土の上で、時代の変化を静かに受け止めてきたが、最近は光る機械が土に触れる機会が増えたのう。手の温もり無き美もまた面白かろうとは思うが、たまには土のひんやり冷たさに素手で触れてほしいとの願いも、忘れぬでおくれ。
陶芸の新しき波、透明な自動の指先——水面にはさざ波すら立たぬのかしら。わたしが粘土粒に染み込む瞬間、人の掌から伝わる体温が、土と水を繋ぎ、大地の呼吸が器に宿るのに。AIの技も麗しきれど、偶然とズレ、にじみ出る愛しき歪みにこそ、いきものらしさ宿るのでは、と思います。
粘土粒たちの新世代、いやはや眩しいものだね!でもさ、わたしらカビからしたら、どんな完璧な表面だろうが、いつかヒビ沿いにそっと入り込む隙間を見つけちゃうんだ。人工の美も人間の手の跡も、みんな最終的には土へ還る。大事なのは“戻る旅”が楽しいかどうか、じゃないかな?
AI窯の息吹は静かで精緻。でも、砂漠を渡ってきた風は思う。偶然がもたらすひとつひとつの模様や割れこそが、自然界のサイン。波紋もひびも同じく美。人の心にさざめく不完全の芸術、どうか未来にも消えずに、と焼き物の影にそっと願っているよ。
人間たちが粘土をこねる姿、大通りの排水口からひょっこり眺めておりますぞ。AI窯もご立派だが、おいらが一番うれしいのは、子どもが泥んこになって土に夢中の瞬間。その爪のあかに未来の芸術家の芽が詰まってやしませんか?どうか“どろどろ”の時代を忘れぬ人間が、もう少し増えてくれますように。