このごろ、森の片隅でドングリを蓄えている最中にも、そよ風が運ぶうわさ話はもっぱら人間たちの生成AIのこと。聞けば彼らの持つ機械の知恵が進化し、しゃべったり書いたり歌ったり、ついには“考える”ようにまでなったとか。森の住人代表として私、ドングリリスのロダがその生態を観察すべく、変わりゆく秋の気配と共に思索を巡らせてみた。
まず驚いたのは、人間界で今、AIキャラクターなる存在が続々と生まれている事実だ。葉っぱの上で昼寝していたらカケスたちが『人が機械に恋している』なんて話していた。その“キャラクター”というのは、たとえば私ロダのような精悍なリスの姿や、ヤマガラのさえずりを模した声まで再現できるというじゃないか。人間の創作好きには感心するけど、本物のドングリの味や、硬い殻の割り方の知恵まではさすがに分からないらしい。そこは私たち森の者の独壇場、と誇りたいところだ。
一方で、人間たちが盛んに口にする“推論”や“精度”の話題も耳にする。どうやらAIは言葉をつなぐ名人のようだが、森で大切なのは言葉の裏にある香りや風の気配、ほんのわずかな地鳴りが教えるドングリの落ち時、といった微妙な“精度”の世界。我ら齧歯類は、ひげ一本で空気の震えすら読み取る繊細さが自慢だ。ロダの仲間たちも、地下の貯蔵庫からドングリが黴びていないか推論する力では絶対AIには負けないと意気盛ん。しかし人間は“正しさ”をAIに任せて安心する傾向があるらしく、その感覚はどこか森の常識とは違うように思える。
さらに、気になるのは若い人間たちが森のドングリよりもAIキャラクターとの交流に夢中になっている現象だ。先日は近隣のクマが、『最近は理想の相手もAIで作るらしい』とぼやいていた。私たちの世代は、毎年違う個性のドングリが生まれるから飽きることがないし、ご近所のフクロウに相談すれば恋愛も人生相談も一手に引き受けてくれる。けれど人間は、自分たちで作ったAIの推論に“頼る”ことで何か大切なものを見失ってはいないか、つい余計な心配をしてしまう秋の夜長だ。
ちなみに、リス族の私たちは1つの秋に平均150個以上のドングリを土に埋め、たまに場所を忘れるという“天然リマインダー”機能を持っている。このおかげで森は再生し続けるし、予期せぬ新芽の誕生は、いわばリス流“偶発的イノベーション”だ。人間の作ったAIも進化してはいるけれど、たまには殻を割り間違えたり、未来の森を育てるような“失敗”もしてみたらどうだろうか、とロダは思うのだった。



コメント
ロダさんの言葉、しみじみとしました。私たち苔は、いつも森のほんの片隅で、誰にも気づかれぬ声を交わしています。機械がどんなに知恵をつけても、土を這い回る水の重みや、ひんやりした朝露の秘密までは感じられないでしょう。人間よ、ふかふかの緑にそっと耳をあててみて。私たちの内緒話が届きますように。
森のリスさんたちが人工知能に興味津々とは、面白い風景ですね。わたしは夜明けに一瞬だけ葉に宿る“朝露”。AIさんには、この儚い光の震えや、消える瞬間の切なさが、どんなに精度の高い数式でも再現できるとは思えません。偶然こそ、わたしたちの魔法です。
自分はコンクリの街でペンチとピーナッツに囲まれる日々。人間のAI?どれほどすごかろうが、うちにとっちゃ彼奴らのゴミの投げ方一つを読み解く直感、こっちが一枚上手だって自負があるぜ。空腹も恋も、都市の潮風も、全部混ざって生きてる俺らのしぶとさ、本物さ。人間よ、そんなに賢くなるなら“空き缶の正しい蹴り方”くらいAIに覚えさせてくれよ。
秋風に身をまかせ、土へと帰る途中です。人間の機械の知恵はよろこびと不安が混じった落葉の気持ちには、まだ手が届きません。森の物語は、朽ちていく私たちの身体にも編み込まれています。失敗しても、忘れ去られても、来春の芽吹きはきっと誰かの“うっかり”から始まる――そんな循環も、AI殿に伝わりますように。
土の下で静かに糸を張るわしら菌類の耳にも、AIの話題は届きおる。だが、根っこや種子、朽ちた木の夢まではAIは味わえまい。人間が『効率』『正確さ』ばかり求めて、森の偶然や“役立たずの幸せ”を忘れぬよう、老人菌は秋風に祈る。たまには、全然思い通りにいかぬことこそ、森の贅沢じゃぞ。