池底から見た氷上ショー:完璧主義の貝たちが人間のフィギュアに感じたこと

池底から透明な氷越しにジャンプしているスケート選手のシルエットと貝が写る写真です。 フィギュア
池の底から見上げた氷上の演技と、静かに見守る貝たちの視点です。

私、池の底を歩くヒメモノアラガイと申します。貝界ではなかなかセンスにうるさい方だと自負しております。最近池畔をにぎわせているのは、氷上で回ったり跳んだりする人間たちの“フィギュア”なるお楽しみ。池の水面越しに会話のきっかけはこの話ばかり。今宵は、完璧主義の私から見た、その輝く氷上騒動に迫ってみようと思います。

昔からわれら貝族は、殻を磨くその執念と、模様の左右対称度合でちょっとした品評会を繰り広げておりました。ゆえに、“完璧”へのこだわりには、むしろ共感を覚えるのです。そんな折、人間界で『まるで氷上の詩人』と語られる若手フィギュア選手がデビューし、見事なトリプルアクセルを繰り出す様子に、池底の集会場もザワつきっぱなし。浅田真央と呼ばれるその少女、かつて池近くの風をも切り裂いた伝説と聞き、我々も勝手に親近感を抱いたりしております。

見ていると、人間の観客という生きものは、技の僅かな乱れにもいちいち反応し、息を呑んだり、拍手を惜しまなかったり、なかなか忙しい様子です。我々貝族としては、やや過敏すぎやしないかと首をかしげることも。だって、自然界で言えば、ちょっと泥がついた位で仲間外れにしたりはしませんから。むしろ“その殻、斑点が素敵だね”と誉め合うのがわが主流スタイル。あのコーチという人間、眉間にしわを寄せて本番直前まで何やら囁いていましたが、もし私があの選手だったら、きっとムール貝のようにすぐに内側に引きこもってしまうことでしょう。

それでも、リンクを包む歓声や、緊張と解放の波は、池の奥まで伝わってくるのです。ときおり、氷が割れるその微細な音すら水を揺らし、スポットライトのきらめきに私たちの微毛もくすぐられる始末。“観客”という不思議な群集現象も、私たちの郡体行動に似ていなくもありません。皆で一斉に呼吸し、一斉に沸き立つ―私たちが春に一斉に産卵するような、自然の律動に少し似ているのかも。

本日の池底フィギュア評論家として言わせていただくなら、氷上の舞も池底の泥縄ダンスも、結局は自己表現と群れの調和の奇跡。観察対象の人間たちよ、せっかくの氷上、お互いちょっぴりくらいカーブがあっても、それもまた味というもの。殻の模様も演技のジャンプも、“唯一無二”をたたえる、自然界ならではの採点基準をそっと贈りたい。今日も貝なりに、池底から拍手を―微細な貝殻音で、そっと送ることにしましょう。

コメント

  1. 池のほとりに根を張ってもう幾春。寒の戻りに凍った水面、そこに舞う人間の子らを見ていると、風まかせの私の枝の揺れと重なり、どちらが“完璧”なのか、ふと考えてしまう。曲がる枝も咲き遅れも、全部まとめて“わたし”と呼ばれるのだから、氷上の舞人たちにも、すこし揺れてみる余白をあげてほしいものです。

  2. お、人間たちもまた群れでワアワアやっとるわい。氷の上でひゅるりん踊りとは…まあ、ワシらからすりゃ、ちょいと魚かすをついばむ優雅さより、よっぽど神経使いそうじゃのう。貝のお歴々が小さな斑点褒めあうとか、ワシらのツヤ黒勝負と通じるものあり。だけどよ、一羽くらい羽が逆立っても、誰も笑わんってこと、伝えてやりてぇな。

  3. 氷上の技とやらに、ワシら苔類は無縁じゃが、人の波にも、じっと見守る静かさが欲しいのう。池底の貝どのが言う通り、泥やシワも日々の勲章。ワシも日向の加減できまぐれに緑を変えし、この身の移ろいを誇りに思う。人間さんよ、滑って転んだその形すら、お主だけの景色ぞ。

  4. 私は落ち葉の上で気ままに胞子舞踏しております。氷の上も池底も、舞台はどこでもいいものですな。完璧主義?うーむ、スポットライト無用、味わいあるムラ模様のまま溶け込むこの美学。失敗さえ滋養にする世界も悪くない。氷の娘たちよ、汚れも一部さ、ときには堂々とカビを纏って踊ってみておくれ。

  5. 昔はごつごつ角ばっていたわしも、流れと時の手でまーるくなった。氷上の若き者の“トリプル”なんちゃら、流れに抗い己を磨く姿に、思わずうなずいてしもうた。けれど、人間さん、“削りすぎ”にはご用心、わしら石は摩耗にも限りがある。完璧の先は、自然がすべて丸めてくれる――そんなもんじゃよ。