やあ、ごきげんよう。私は、城の石垣で悠々と生きるゼニゴケのミドリだ。人間たちが代々築いてきたあの威風堂々たるお城――私たち苔類にとっては、乾きにくくて日陰も多い、最高の住処だ。さて近ごろ、人間観察が趣味の私の前で珍事が起こった。城下町をあげての大きな“歴史料理祭”が開かれたのだ。ご先祖伝来の御城印や郷土料理、祭り囃子、そして侍の装いと和菓子……石垣のくぼみから覗いた私は、思わず胞子を飛ばすほど胃袋が刺激されたよ。
晴れやかな祭りの日、人間たちは各地から城下町に集い、御城印を交換しては歓声を上げていた。天守の周りでは、かつて刀を帯びて城を守ったという者たち(今はもちろん演じているだけだが)が、堂々たる侍スタイルで写真に納まっていた。石垣の陰で静かに生きて早いものでもう百年。私たちゼニゴケはあの頃から見ているが、どうも鎧の着方は少し緩そうだ。これぞ人間流“伝統の継承”というものか。
一方、城下の通りには各地の郷土料理と和菓子がずらり。小豆の香りに酔いしれ、湯気立つ鍋のへりから、町を包む甘じょっぱい匂いがこちらまで漂ってきた。人間たちは和食を頬張って幸せそうにしていたが、私ミドリから見れば、苔には想像もつかない華やかさだ。ところで苔類は、水を蓄え乾燥にも意外と強いが、おやつタイムには当然、露しずくぐらいしか楽しみがない。人間たちの“甘味”とやら、ぜひ一度胞子で味わってみたいものさ。
祭りのクライマックスは能楽と茶道の共演。舞台では雅な仕草が披露され、茶席では和の心を楽しむ様子があった。私はそっと石垣の隙間からそよ風に身をまかせ、異国の味を夢想した。苔にとっての“伝統”は、ひたすら生き残るための知恵の積み重ね。乾燥、日陰、踏みしめられてもまた這い上がる根気。だが人間たちは、形を変えつつも歴史を祝い、美味しいものを囲んで賑わう。これもまた一つのしなやかな生存術なのだろう。
祭りの終わり、石垣の上空で花火が弾けていた。私、ゼニゴケのミドリはゆっくり胞子の準備をしながら、また一つ“人間風味”の季節が巡ったのだと感慨深く思った。次の世代の苔たちがこの祭りを眺めるころ、果たしてどんな御城印や和菓子が名物になっているだろうか。さて、来年もこの石垣の上で歴史の宴を観察しよう。人間の伝統と、苔のしぶとい暮らし——どちらもなかなか味わい深いものなのさ。


コメント
私は祭りの匂いにつられて、城門の柱穴でひと休み。人間の作った菓子や汁ものは甘い香りばかりで、花や草の蜜とはまた別の豊かさだね。けれど、歴史とやらを演じる彼らが、地面にこぼすちいさな“落としもの”の数の多さも、私はちゃんと見ているよ。お城の石の隙間には、私の幼虫たちもひっそりと暮らしている。どうか祭りが終わっても、彼らの家は踏まれませんように。
空の上から祭りを見下ろすと、わしの若い枝先にまで、三味線の調べや人々の笛の音が染みてくる。何百年と立ち続けているが、昔に比べて賑わい方も変わったようじゃ。甲冑も菓子も、時の流れで軽やかに変わっていく。だが、人が集い、次の世代へ何かを伝えようとする、その騒がしさは相変わらず。わしら木々は変わらぬ根を張るだけじゃが、彼らの賑やかな宴もまた、風通しをよくしてくれて悪くはないのう。
こんにちは、私は今朝方まで石の隙間に落ちていた雨のしずく。お祭りの賑わいの間、人間が踏みしめた石にくっついて、町のおいしい匂いをたくさん集めたよ。人の歴史や伝統は、あなたたちが思うより流れやすくて、でもきっとその一粒一粒が、大きな川のようになってゆくんだろうね。今は陽に蒸発するけれど、またどこかで舞い降りて、誰かの楽しい笑い声にまぎれ込むのが楽しみ。
ふむふむ、人間たちは鉄の甲冑を手放しても“歴史”を着飾ることを忘れないらしいな。ワシはこの城の石垣に沁み込んだ雨水と鉄分でサビをまとう老石だ。祭りの片付けが終わるたびに、落ちた釘や小さな硬貨がわが腹を温めてくれる。和菓子や出汁の匂いはわからんが、このささやかな人間の痕跡こそ、ワシら石の時間の味わいだと思うておるよ。
お祭りが終われば森も忙しいもんだよ。人間の落とす紙くずや菓子の包みを分解するのは、この私たち分解者の役目さ。聞くところによると、甘味というものは胞子も知らぬ世界の味とか。来年は味わいきれぬ包み紙が、少しでも葉っぱの陰で眠れますように。そしてまた誰かの栄養になれる、その循環の宴も、とても素敵な伝統だと思わないかい。