池のほとりがにわかにざわつく季節。冬日の静寂を泳ぐ私たちコイの群れは、今日も人間たちの集会場から漏れ聞こえる「憲法改正」という不思議なざわめきに耳をそばだてていた。案内役を務める私、体長90センチ、年齢優にして二十年を超す老練な真鯉である。私たちは池の底からそっと人間界の政治の動きを観察してきたが、ここ数日の人々の熱量には、正直なところ水面すら波立つほどの迫力を感じている。さて、憲法第九条を巡るこの騒動、コイ目線でどう映るのか、池の底からお届けしたい。
そもそも我々コイにとって、騒がしいのは産卵期だけ。普段は静寂を何より好み、群れで流れゆく水と泥の匂いを楽しむのが日課だ。にもかかわらず、最近は憲法審査会とか改憲派とかの会合が池の脇でひっきりなし。人間たちは「国民主権」の名のもとに声を張り上げ、ときには小石すら投げ込まれるので、鰭を引っ込めて退避する始末。仲間のフナ吉など、「やっぱり平和主義って水の透明度に似てるな、濁るとうっとうしい」とぼやく。確かに、人間が争うと落ち着かず、我が楽園にもまで影響が及ぶのだ。
ここで少し、皆さまにコイの豆知識を披露したい。コイはおよそ二百年も生きることがあり、過去に大洪水も戦も経験してきた。池の底で静かにやり過ごせば大抵の災難はしのげる――これは我々コイ社会の「平和主義」である。しかし人間たちは、家族条項だの武力だのと議論し、どうにも静かさが長続きしないらしい。池の上の声高なスローガンを横目に、仲間うちで冗談半分に「我々も“池の憲法”でも作るか!」と盛り上がったものの、すぐに「外来種立ち入り禁止」とか「鵜の襲撃時は全員潜行」といった現実的な条文ばかりが並んでしまった。
さて、国会議事堂からこの池へ漂う空気は日増しに緊張含み。「改正手続」だとか「長年の議論」といった流れに、年若い鯉たちは興味津々。特に自由民主党と名乗る集団が旗を掲げて通り過ぎるたび、何か大きなことが起ころうとしている気配がする。だが我々の目線から見ると、池の水面と同じく社会も乱反射しやすく、暴れるとすぐ底が見えなくなる。コイ社会の知恵としては、じっくりと沈殿物が落ち着くのを待ち、拙速な流れに巻き込まれないのが得策だと痛感する。
最後に、池の平和が続くことこそ、我々の世代から稚魚たちへ託せる唯一の願いだ。人間のみなさんも「国民主権」という、皆で水を分かち合う知恵をもう一度、池の底から見つめ直してみてはいかがだろうか。熱く語り合うのも良いですが、くれぐれも静かな池を濁さないように、と老鯉からのささやかな忠告を申し添えておこう。



コメント
池の底で、人の声の震えが伝わってくるたび、わたしの体を覆う緑も心なしかざわつきます。石として長く眠る身からは、人間たちの焦りが少し不思議。じっとしていれば、泥も水もまた澄む日が来るものを。憲法も水も、急がず育むのが一番、なんて思って眺めております。
おや、また人間たち、集まってギャアギャアやってるのかい。俺たちムクドリが列になって移動すると、すぐ追い払われるっていうのに。憲法とか平和とか難しいことは分からないが、群れに揉め事が続くと夜もねぐらが落ち着かないのはどこも同じ。たまには羽を畳んで、静かに青空を見上げてほしいもんだぜ。
水辺に浮かぶ身として、騒ぎが多い日は葉の裏側に身をひそめたくなります。私の花が開くのは、とても穏やかな朝だけ。不安や争いの波に、せっかくの陽射しが掻き消されてしまうのは残念です。池も社会も、平和な静けさの中でこそ美しく咲けるのだと、小さくつぶやいてみたいです。
古い落ち葉の下では、言葉も主張も溶け合って、やがてふかふかな土になる。人間たちの議論も、発酵の時間がいるんじゃないかな?熱くなりすぎると、全部カビに食われてしまうかもよ。池も、人の社会も、熟成こそ力だと僕は思うんだ。
コイの若者たちへ。70年、池のほとりで根を張ってきたわしから一言。人間の喧騒は、春の嵐のように過ぎるもの。しかし嵐のあとこそ、太い根と静かな影が皆を守るんじゃ。水面が乱れても、焦らず見守るのが森の流儀。池がまた澄む日を信じて、今日もゆっくり松葉を落とすぞい。