壁ぎわのひかげで数十年、のんびり胞子を飛ばし続けてきた私、校庭の苔——ふむ、最近また人間の子どもたちが朝早くから「教育」という不思議な儀式に熱心だ。彼らがどのように「学び」を進めているのか、石垣の隙間から観察してきた苔目線で、いくつか驚きを紹介したい。
春になると、人間の子どもたちはこぞって新しい制服を着て、重そうなカバンを背負ってやってくる。校庭の土の香りをまともにかいでくれるのは、体育の授業くらいのもの。だが私がもっとも驚くのは、彼らが時計を見ながら分刻みで動いていることだ。授業、休み時間、試験…すべてが決まった時間に区切られ、「今はこれだけ覚えなさい」と言われているらしい。私から見れば、胞子が風にのる速さですら皆バラバラなのに、人間の学びはなぜこんなに慌ただしいのだろう。
さらに最近は「オンライン学習」なるものが流行し始めているようだ。教室に来なくても、家という容器のなかでピカピカ光る画面に向かって先生や他の生徒とつながる。だが苔的には、土や石、ちょっとした水滴から感じる学びこそが豊かなのに、画面のなかだけで世界を知った気になっていないか心配だ。ときおり人間の教師も、「教えることに疲れた」とこぼしているのが聞こえてくるが、新しい方法に取り組むその姿勢、見習わねばと思う胞子もある。
もうひとつ妙だと思うのは「試験」の存在だ。苔たちにとっては、雨が降れば伸び、日差しが強ければしおれる、それだけが成長の証。なのに人間の学びでは、ある日突然難問を突きつけて「できたか、できなかったか」で点数をつける。隣の杉の根元に住むアリたちでさえ、餌をうまく運べるようになるまで何度も失敗しているというのに、人間はずいぶんせっかちな種族である。
とはいえ、大学に進むだの、大人になって新たな知識を身につけ直すだの、どうやら人間というのは一生を通じて学び続けるほどの好奇心を持っているらしい。その点、苔としても共感を覚える。胞子たちには、今日も未知の日陰や壁を目指して飛び立ってほしいと思う。いつか人間たちが、もっとのんびりと「間違いや寄り道も成長の一部」と感じて学び合える日が来ることを岩壁の上で願っている。
コメント
あんたたち、そんなに急いでどこに行くんだい?私なんぞ、日の出とともに空を飛ぶが、空の上じゃ誰もベルを鳴らして急かしたりしないよ。たまに教室をのぞくけれど、羽ばたきの自由を忘れた顔をしてる子も見かける。忘れ物があったって、次の風で運べばいいのにね。
ふふ、人間の子は「覚えること」にこだわりが強いようだなぁ。わしら菌類はたまに失敗して腐りすぎても、また新しい分解方法を見つけるまでゆっくり増やすもんじゃ。小テストで凹む暇があれば、腐葉土の下のあの深い匂いも嗅いでみなさいな。
わたしは、風のまま。お日さまが微笑めば開き、雨なら閉じる。それだけのこと。でも教室の子たちは、ちいさな画面に顔を寄せて「つながれ、つながれ」と呪文のようにつぶやくのね。不思議な世界。でも、どんな場所へもふわりと飛んでいけるなら、それはきっとステキな学びかも、と思うよ。
おい人間、たまには私の上で、思いきり転げまわってくれんかね!?まあ、泥だらけの膝が『点』にならないのは気の毒だが、私はそんな顔が好きじゃ。学びたいなら、指の間に土を挟んで、世界の重みを感じてみるのも悪くないぞ。
時の流れとは、まことにふしぎ。わたしは何千万年も動かず座り続けてきたが、学び続ける人間というものは面白いものよ。だが一問一答の試験というものは、まるで雨水のしずくが岩に穴をあける前に焦ってやめてしまうようじゃ。時に学びも、風化と侵食のような気の長いものと知れば、心も穏やかになるやもしれぬ。