春の光がベンチに降り注ぐ午後、私はあの大きなケヤキの枝先から、例の人間家族たちの集合を見下ろしていた。どうやらベンチが占拠され、鳩組合すら近寄れない緊迫ムード。伝聞によればこれが「家族会議」なるものらしい。木の実集めの手を止め、しばしその摩訶不思議な儀式に見入ってしまったのだ。
耳を澄ますと、あちらのちびっ子がポケットからきらりと光る平たい石(=スマホ)を取り出しかけ、即座に親ヒトの『それは今はしまいなさい』の声。なんとも厳重な監視網。枝の上の私ならスルーしてしまう自由行動も、ヒト族の子どもには複雑な儀式が伴うらしい。巣の弟妹たちの自由奔放ぶりを思い出して、思わずしっぽもくるりと揺れた。
議題はどうやら『連休の家族旅行先』と『お父さんの仕事の都合』、それに加えて『祖母という存在をどこに入れるか』という三点に絞られていたらしい。ヒト科大人たちは手に紙片を持ち、眉根を寄せて論じ合う。巣の場所選びなど、私たちは秋の実り状況と天敵リストだけで決まるが、ヒトたちの話し合いはどうにも込み入っている。しかも『ワークライフバランス』なる難解な呪文も頻発。枝先の私の頭では棍棒の一撃ほども理解できないが、とにかく“働きすぎて家族旅行どころじゃない”らしい。ずいぶん大変そうだ。
極めつけは最後の『誰が親戚の結婚式に出るか』問題。人間界にはどうやら、血縁という見えない糸のルールが山ほどある様子。兄ヒトは冷たい目で『ぼく去年も行った』、妹ヒトはうつむき加減に『じゃんけんは絶対いや』。母ヒトはため息をつき『家族会議の意味あるの?』と呟く。私たちリス一族なら、どんぐりの分配で親子バトルになるときは、速さと鋭い歯がすべてだ。話し合いという交渉術はなんとも不思議。
結局、議題は着地せず、スマホ所持権を巡る新たな小競り合いが勃発。ヒトの家族会議とやら、完了までにどれほどのエネルギーと木の実が消費されるのだろう。私たちリスは夕方の冷え込みを前に、そろそろ巣へ戻る支度を始めた。さて、枝の上からのウォッチングはここまで。人間社会の『家族』という営みも、私たちの世界の巣の中とはまた一味違うもののようだ。時おり譲り合い、ときに激しく主張し合い、それでも夕暮れには連れ立って帰路につく姿が、木の上の私から見ても何やら微笑ましいのであった。(公園の大ケヤキ在住リス、しっぽふっさり3年目より)
コメント
あのベンチの下、ひんやりした石の隙間から毎日彼ら人間の家族を見上げているよ。自由に伸びて朽ちる僕たちには、ああして決めなきゃ前に進めない彼らの姿が新鮮だ。だけど、夕暮れにみんなが同じ方向へ歩き出す光景は、どこか春の胞子が一斉に風に舞うときと似ていて、静かに心が揺れたのさ。
僕の根っこは固い地面をこじあけて伸ばしてるけど、人間たちは言葉をこじあけて家族の居場所を作るんだね。『ワークライフバランス』って呪文…雨上がりに歩道を滑るカタツムリの速度くらい難しそう。でも太陽が沈むころにはみんな並んで帰る、その気配のおかげで今日も少しだけ背伸びできそう。
よう、俺はカラス。ゴミの日には人間たちの残り物に目を光らせてるけど、今日の家族会議には手出しできなかったな。誰がどこへ行くか、どの巣が安全かって、種族が違っても気になるもんさ。ただ俺らは、さっきのリスみたいに頭抱えず、パッと飛んで“次!”って感じだけどね。まあ、時には人間たちの迷いも魚の骨みたいで愛嬌があるぜ。
私はここで百年、何十もの家族の集いを見てきた。巣の相談に枝がしなることもあれば、人間の話し合いに風が止まることもある。不器用な声、細い指、ため息。それでも、みな帰るべき場所を忘れはしない。しわくちゃだが、彼らの笑う気配を石の奥まで沁み込ませて、今宵も静かに時を渡ろうかの。
どんぐり争奪戦に比べたら、人間たちの家族会議は長丁場みたい。私たちキノコ仲間で集まるのは、ほとんど“今日湿っぽい?”くらいの話なのに。けれど、互いにゆずったり、すねたりしながら向き合うのも、なかなか趣があるもの。ねえ、次は私たちも“胞子会議”と称して、夜露の下で踊ってみる?