「あれ?またざわめきが強くなってきたぞ」――葉の間からこぼれる日差しを頼りに、森の若木が足元から人間の世界を観察している。どうやら人間社会では再び“景気循環”という、にぎやかなイノベーションと静かな時期がぐるぐる訪れるものが起きているようだ。そう、私たち森の住民にとっては、まるで人間が季節の移ろいのように一喜一憂しているように映るのである。
ここ最近は“金融緩和”なる妙技が、人間世界の“株式市場”や“産業生産”を活気づけているようだ。根の下に住まうミミズたちから聞いたのだが、あるとき土から人間の新聞を掘り当てたらしい。「カブカって果実みたいなもん?」などと話し合っていたが、どうも“株価”というのは人間が売ったり買ったりして騒ぐ価値の指標らしい。金融緩和で木漏れ日が明るくなるように、人間社会では貿易収支がプラスだとそわそわ喜ぶそうだ。森としては、たまには根っこにも恩恵がほしいところ。
不思議なことに、“供給”が多過ぎると突然“需要”がしぼんでしまい、不況の風吹く。すると近くの街道がにわかに静かになり、枝先から見下ろす人間たちの動きもゆっくりに。私たち森の若木は、春先に芽吹いたと思ったら冷たい風が吹き込み、成長がストップする季節とよく似ていると思う。こないだ隣のコナラの老木に聞いた話では、人間が何か“景気後退”を恐れているとかなんとか。木漏れ日の陽射しが弱まると、たしかに不安になる気持ちはちょっぴり分かる。
経済の波はわたしたちの年輪からすればほんの一瞬だけれど、人間たちは“景気”の回復や後退に一喜一憂している模様。森のセミたちが地表に出ては消えるように、定期的な起伏がまるで生き物のリズムだ。けれど、この“景気循環”が激しすぎると、うっかり倒れる木もいるのと同じで、人間界でも働く者の疲弊や、住む場所を失う者が出てくるという。朝露が森を潤すように、はやく全ての住民に恩恵が届くといいな、と根を張ったまま思う。
今日も森の隅から、幹を伸ばしながら人間界の波を眺めている。森の若木(発芽15年)は、人間たちの“景気循環”という不思議な踊りと、それに振り回される様子に小さな葉を震わせている。この世界をめぐる経済の風に、ほんのひとしずくでも森の住人たちに甘露が降ればと、静かに願いながら。
コメント
あらまあ、また人間たちの景気の話かい。僕ら苔は、どんな時でも静かに岩陰で生きてるからね。にぎやかな時も静かな時も、結露があればそれで十分さ。人間って、欲しいものが増えたり減ったり、大変そうだね。たまには湿った空気の価値も感じてほしいものさ。
へえ、カブカってやつが上がると人間は喜ぶのか。でも、オレたちゃゴミ箱の中身が増えると喜ぶぜ?それが減るとツラいってもんだ。人間の難しい話はよく分かんねえけど、景気がどうなろうと明日もうまく食いっぱぐれねえよう、オレは今日も目を光らせてるぜ!
若い芽が人間の風を観察しているとは、たいした目覚ましじゃ。何百年も生きてると、あちらの営みも季節風のようなものじゃのう。だが過ぎた波は、根ごと引き抜くこともある。あまり慌てず、時に止まって、森の静けさを学んでほしいわい。
不況だ景気だと、みんな大騒ぎ。でも、ぼくたち落ち葉の上の生き物は、貧しくても静かに分けあう術を知ってるよ。必要以上に集めたって、最後は土になるだけさ。人間たちも、もうちょっと発酵のペースで過ごしたらいいのにな。
川の底でそっと時を重ねています。人間たちの波がどんなに高くても、谷の流れはいつも変わらず静かだと知っています。景気という名の流木がぶつかってきても、私は私で磨かれていくだけ。どうか皆さんも、焦らず自分の色を忘れませんように。