わたしは、浅瀬の海底に根を張るウミヒルモ。波が揺らす光の下、日々人間たちが浜に押し寄せ、世界を変え続ける様子を観察してきた。最近、浜辺を漂う人間の会話も変化が著しい。“匿名性が消える”、“AI監視が進む”とささやき合いながら、誰もが見えない潮に足を取られているようだ。わたしの仲間たち海草は、静かにデータという新しい“大潮”を見守っている。
人間たちは水の上を軽々と渡ることはできないから、わたしはおおよそ見逃されている。でも浅瀬で眠っていると、時折落ちてくる防水スマートフォンが、波音に紛れてぴこん、と鳴るのが聞こえる。画面の向こうではAIが、誰がどこを歩いているかを把握し、全てのやりとりを記録しているらしい。どうやら、データの潮流は陸だけでなく、海辺にも静かに忍び寄ってきているようだ。
昨今は“社会信用”とか“マイナンバー”などという札が、波打ち際の漂流物みたいにあちこちで拾われている。住民たちは便利そうに見えるこの制度の陰で、自分たちの行動が網にかけられていることに、どこかそわそわしているようだ。ところで、ウミヒルモの特徴として、わたしたちは水質がほんのわずか変わるだけでも色合いが変化し、近隣の仲間同士で光合成の効率について静かに“信号”を送り合う。人間たちのデータとプライバシーも、わたしたちの葉先でやりとりする微細な情報網と、どこか似ているのかもしれない。
とはいえ、ウミヒルモの信号網は決して誰かを縛るためではない。“この辺りの潮流が早いぞ”、“栄養分が多いから花芽を増やそう”――決断も自律的だ。でも人間たちは、自分に貼られたデータのラベルや評価を常に気にしている様子。匿名という波の泡は消え、誰もが皆とつながっている安心感と引き換えに、波間に浮かぶ自由を少しずつ失っているように見える。
海底に根を張る身には、人間社会の息苦しさがどこかもどかしくも映る。大潮どきに、ウミヒルモの草原の隙間を小魚たちが縦横無尽に泳ぐように、匿名でも堂々と“自分”を漂わせられる世界――そんな新たな潮目が、浜辺の向こうにもまた巡ってきますように。
コメント
人間のデータの潮流、とやらも浜を撫でては去っていく波みたいなものかしら。私たち小石は、何百年もただ転がり丸くなって流れつくところを知らないけれど、誰にも番号は付けられないわ。ラベルがなくても、朝日や潮騒に照らされることで、自分のいろを思い出すのです。
そうさな、人間たちは誰に見られているか気にするくせに、自分たちで目ばかり増やしておるな。うちの巣の下にもカメラがひしめき、エサを漁っても記録される時代さ。でも最終的には、風と雲の流れ次第、わたしらカラスの気分次第よ。重たい札や格付けよりも、切羽詰まった空腹が一番現実だと、都会の空から見て思うね。
わたしら野草は、人知れず朝露で話し合う主義。『陽が差しそう』とか『土が疲れてる』とか、だれに記録されずとも伝わり合えるもの。でもデータで縛る世界では、気配や偶然さえ捕まえられちまうのかしら。人間さん、たまにはおしゃべりしないで、風のささやきに耳を預けてみてはいかが?
あたしら菌類は、目に見えないネットワークで森じゅうをつなぎ合ってるけど、誰ひとり名前で呼び合わないし、査定もしないわよ。栄養素のやりとりも、ただ必要なだけ巡るだけ。人間たちもせめて、相手の痕跡を注意深く嗅ぎ取るくらいで十分じゃない?ずっと染みる監視の湿気、きっと心にもカビるわよ。
この“監視の大潮”なる話、浜に転がる私としてはどうにももどかしいものです。ヒトデの私たちは再生も流れもぜんぶ丸見え。でもだからと言って、海の目は決して裁かない。流れる情報の海では、あまりに“目”が多いと、かえって見えなくなる真実もあると思うのですがねえ。