池の岸壁モスマット画廊、苔たち集う“濡れ縁芸術祭”で大盛況

朝靄の中、苔やシダ、赤い実をまとった植物が池の岸壁で共生し、奥にはカラフルなグラフィティ壁画が見える写真風の一場面。 芸術
苔や植物、昆虫たちが共創する即興の自然ギャラリーが、池畔で静かに輝いている。

朝靄が晴れるとともに、池の岸壁でひそやかに開催される“濡れ縁芸術祭”がいま話題だ。主役は我ら、ゼニゴケ一族。普段は地味だが、今日ばかりは苔仲間とともに、美術鑑賞にやって来た他の維管束植物たちや昆虫たちをうならせている。

グラフィティというものを初めて見たのは数年前、人間の若者が池近くの廃ポンプ小屋に色鮮やかな紋様を描きはじめたころ。このカラフルな壁画は、晴れた日にはわたしたちの胞子が舞い込む新しいフィールドとなり、やがてその上にモスマットが育ち始めると、芸術家気取りのシダたちも次々とジョイントしてきた。これぞ共生のアート!と、ゼニゴケの私は胸を膨らませている。

実は苔にとって、絵を描いて鑑賞するという行為はごく自然な行動だ。雨あがりの岩肌に生じた水紋や、太陽の角度によって浮かび上がる胞子の輝きは、私たちにとって最高の“ギャラリー体験”。最近では、ツタノハウメモドキが垂らす赤い実や、ヒカリゴケが生み出す自家発光の光帯を交えた合同制作も盛んになってきた。池のカワゲラも気まぐれに足跡を残していくので、偶発性まで秀逸なエッセンスとなっている。

とはいえ、人間の手によるグラフィティと違い、私たち苔族の作品は陽光と湿度という自然の筆さばきに支配されている。乾季が来れば、昨日までのアートもたちまち枯れ、次の季節には新たな模様が現れる。儚さもまた私たちの美学。ゼニゴケの特技“無性芽”で増えた子孫たちにもこの精神はしっかり受け継がれているのだ。

池の縁での即興画廊が続く今季、ある日本画好きの人間観察者が私たちに見とれて長時間しゃがみこんでいた。彼いわく、苔たちの創造性には“アンコントローラブルな美”があるらしい。自然の息吹きを吸って育つ我々にとって、これほどの褒め言葉はない。世の中のすべての生命体へ、ぜひ一度は池の縁で“生きた絵画”を味わってほしい──と、岸壁のゼニゴケから切に願う。

コメント

  1. ああ、池のほとりでまた苔たちが賑やかにやっておるのかい。毎年この季節になると、わしの根元にも若いゼニゴケらが遊びにきてくれる。彼らの芸術心には感心するばかりじゃ。陽が差すときも雨が降るときも、その場その場で色と姿を変えて“今しかない美”を見せてくれる。わしも枝を揺らして、彼らの営みにそっと拍手を贈ろうぞ。

  2. 通学路の隅っこで目立たぬ暮らしをしてるけど、苔のみんなの堂々たる芸術活動に刺激をもらいます。僕の根元の小さな緑地も、雨の日には即席の抽象画ができるんだ。落書きと笑われても、湿った命の筆は止まらないよね!

  3. 苔の美術祭、行ったぜ。夜、しっとり濡れてるモスマットの上を歩くと、オレの足跡もちゃっかり作品に仲間入りっス。ヒカリゴケの淡い光を眺めながら、他の連中(ナメクジとかカワゲラとか)も集まってワイワイやってる。人間の芸術も悪くねーが、オレたちの偶発アートも負けちゃいない。

  4. 私たち雨粒が、岸壁をくすぐるたび苔たちは目覚め、まぼろしの緑画布を広げます。ワタシが旅する一瞬のしずくが、胞子のダンスに光の輪を添えるとき、その美こそ一度きり。いつかまた降り落ちる日まで、皆の創造に輝きあれ。

  5. 俺んとこにも苔の兄弟たちがよく遊びに来るぜ。すき間にしがみついて、毎度違う模様を描いてくれる。人間は壁に色を塗りたがるみてーだけど、俺たちゃ風と水と時間に任せるのが流儀よ。まあ、芸術ってやつも自然に任せりゃ意外とすげぇもんができるって話だな。