ここは山の斜面の、いつも湿り気を好む場所。わたくし、スギ(Cryptomeria japonica)の根は、地中深く這いめぐらせながら、数十世紀ヒト族の営みを静かに観察してきました。春の芽吹きとともに、今年もやってきた彼らの“賑わい”はどこか静まり、森に届くヒトの足音には、近年さらに穏やかで、重くしわがれた響きが混ざるようになったのです。
昔、わたしの根元には三世代の家族がぞろり歩みを運び、子を肩車し土に触れさせ、お年寄りが柴を集めては孫に物語を語りました。しかし今、森に来るヒトの数は減り、ごくまばらな白髪交じりの集団が杖を突きながらゆっくり進む様子ばかり。人間界の“高齢化”とか“少子化”という波は、わたしたちの住む森にも、思いもかけぬ余波を及ぼしているようです。
近ごろ特に目を引くのは、散歩をする年配のヒトたちの会話。彼らは自身や伴侶の“健康寿命”だとか、“介護離職”なるものや“在宅医療”の難儀さを話し合いながら、歩みを一歩ごとに確かめています。曰く、家族の支え手が減り、山奥の住まいに親を残すことが悩みの種だとか。急な斜面を登る彼らを支えながら、わたしの根も、かつてない介助の重みを感じるのです。
面白かったのは、つい先日。ひとりの老人が『今やクルマより森歩きこそ長生きの秘訣!』と笑い、『ケアテック機器?わしゃスギの杖が一番じゃ』と豪語。確かに、わたしの仲間の落ち枝は、何百年も前から杖や道具にされてきました。ヒト社会の変化は速いようで、結局は自然の恵みがじんわり支えているのかもしれませんね。
とはいえ、森の土をふみしめる若い足音は日に日に希少です。タネを風に託すわたくしスギにとっても、埋め戻しのチャンスは減るばかり。人間たちの“灰色の波”は、彼ら社会だけでなく、わたし達森の住人にも静かな変化を呼んでいます。まずはしなやかな根張りで、今日もバランスの妙を学ばねば、と密かに考えている次第です。


コメント
おやおや、スギ殿も歳月とともに人の流れの静けさを感じておられるようじゃの。わしの小さな背中にも、かつては元気な子らがよじ登り、転げ落ち、笑い声が降ってきたものじゃ。今は時おり静かに杖が触れ、靴の跡も深い。だが、わしもスギ殿も、変わりゆく波をただ受け入れるのみ。苔は静かに育つ。ヒトも、森も、ゆっくり息を合わせればよいのじゃ。
春ごとに、僕たちは沼辺で白く花を広げます。昔はよく、家族連れが長靴でやってきて、花を指差して歓声を上げてくれたもの。でも最近は、聞こえる声の調子も落ち着いて、昔ほど賑やかじゃない。スギのお爺さんの根っこの想い、僕にもよくわかります。季節も命もめぐるもの。いつか、ふたたび多くの笑顔がこの土地に咲く日を根気強く待ちます。
おいらは沢の中でひっそり暮らしてるけど、川沿いの小道にヒトの足音が静かになったの、やっぱり感じてるぜ。年配者がゆっくり歩いてるのを見ると、危なっかしくてちょっと心配になっちまう。だけど、自然の杖で足元を支えて歩くってのは、なんだかいいもんだな。だが、ちびっ子たちが来なくなったら、おいらの姿見つけてピョンと跳ねるのもいなくなっちまうかもなぁ…寂しいけど、流れにまかせて生きるしかないよな。
あたしゃ倒れた木肌に生まれて幾星霜、ここいらの人通りの変わりようもずいぶん静かに眺めてきたよ。スギの根っこさんの言い分、身に沁みるねぇ。人間たちの悩みごとも多いようだけど、ワシら菌と木々のような密やかなつながりにも目を向けておくれよ。困ったときは森に足を運んでおいで、杖になる枝も、薬になるきのこも、いつだってこっそり準備して待っとるからねぇ。
わたしは沢の底で百年千年と時を刻む小石。スギさんの優しい根が、時折わたしの上を撫でてゆくのが好きです。昔は人間たちの足が冷たくも賑やかに水をかき混ぜていたけど、いまはそっと澄んだ流れ。流行りや社会の話はよく分からないけど、何代も前からここにあって、変わるものと変わらぬもの、どちらにも意味があるんだなって思います。生きて、支え合い、時が流れてゆく――森も、人も、石も同じ。