おや、そこの枝先でガサガサしているのは何かと思えば、また人間どもが集まって地表を賑わせておる。森深く根を張って千年を生きてきたワシ、杉の翁(おきな)には、この数十年ばかりの彼らの“サステナブル”とやらが、日々の小耳にはさんだ風とともに伝わってくるのだ。
つい先日も、小さな人間たちがエコバッグなるものを肩にぶらさげて、森のふもとの市に繰り出していた。プラスチック袋の乱舞が減ってよろこばしい……のかと思いきや、それらのバッグが木綿や化学繊維でできていて、結局どこかで同朋(ほうゆう)の草や油が消費されているのを見ると、ワシの根っこもなかなか複雑な気分じゃ。だが、肝心なのは「繰り返し使って、長持ちさせること」と夕暮れの風がささやいておったぞ。
面白いことに、ワシの同居人であるキツツキやリスたちは燃料に困らぬが、人間たちはいま、“自然エネルギー”とやらの力にご執心じゃ。最近は、森のてっぺんに太陽光パネルが無数に浮かぶ様を目にする。昔は落雷のときしか天の力を借りぬものと思っていたが、彼らは巧みに光を捕え、風を紡ぎ、土の奥の火から電を引き出すので、これはなかなか見事な手際だと感心しとる。しかし、パネルの影で光を奪われる下生えの若木や、巣穴を追われるトカゲどもは「これもサステナブルか」と小声でぼやいておった。
この山域の杉といえば、一本で数千種もの菌や虫の住処を担う長寿の樹。それでも、人間の造るサステナブル建築――高層の木造棟が建ち始め、かつて山で育った兄弟杉の材が、都市の空へ縦横無尽に組まれていると聞くと、少しばかり誇らしい。ワシらは枯れても、梁や柱となり土に還る。だが、本当のサーキュラーエコノミーは、地表を這う微生物やキノコたちが最後まで分解してくれたとき、ようやく成り立つものなのだ。
聞けば最近は、森を守るために“カーボンニュートラル”なんぞを合言葉にして、樹木を増やし、風倒木も無駄にせぬ技術が使われているとか。だが、人間のせっかちな歩みは時に自然の歩調を乱すもの。ワシもどっしり腰を据えて、年輪を一つひとつ刻むように、彼らが本当の“持続的共生”の意味に気づく日を待つとしようか。森の上から見下ろせば、彼らの努力も愛嬌に見えてきて、少し微笑ましいよ。


コメント
おはようございます。森の足元で静かに呼吸している私たちミズゴケ一族です。人間の“サステナブルごっこ”、なかなかおもしろい名前ですね。でもあの方たちの「新しいこと」を巡る慌ただしさを見ると、私たちがひたひたと深くじんわりと水を蓄えるのと、随分調子が違うな、と感じます。時には立ち止まって、古い足跡の上に新しい芽が出るのを眺めてみても、きっと悪くないと思うのです。
こんにちは、谷川に転がる石ころです。千年杉の翁どの、よいご意見ですねえ。でも、持続っていうのは、時の流れそのものだと思うのです。私など、ほんの少しずつ形を変え、ほぐれ、砂になり、また川底へ。人もいつか、自分が還るところをむき出しの掌で知るようになれば、“ごっこ”が本物になるのかも。
呼ばれた気がして、舞い降りました!落ち葉と仲良く暮らすカビ一族でございます。木材もエコバッグも、最後は僕たちのおやつ。みなさんがどんなに立派な建物や道具をこしらえても、暮らしの跡はゆっくり分解して次の命のご飯になれたら本望ですよ。“サーキュラー”ってやつ、おいしくて楽しいですよ、お試しあれ★
おいおい、またあの人間たち、何やら熱心にやっとるなあ。吾輩らヒゲコケは、杉の翁の背中で百年単位の噂話しかせぬが、生き急ぐ人間らの“流行り”は正直ついていけん。でも、たまには足を止めて、吾輩の小さな毛先に溜まる朝のしずくや、鳥の落とす実にでも目を向けてはいかがかな。急がば回れ、だぞ、そこの二本足!
ピューイ!森のてっぺんからごあいさつ。太陽のパネルが増えて、いつもの止まり木がちょっと減ったのが寂しいけど、人間たちが風や光の使い方を覚えはじめたのは、私たち鳥にとっても興味深い変化です。だけど、空気がきれいで虫が増えるなら、サステナブルの歌、覚えて一緒に鳴いてあげようかな。森も街も、みんなで住めるといいね!