春風が松ぼっくりの間をすり抜けるこの季節。私、校庭の隅にどっしり構えて113年目のアカマツは、遠くから見守る“人間学級”の今昔を見つめてきた。毎年、制服姿の小さな二足歩行生物たちが成長し、時に泣きながら、時に笑いながら、知恵という根と葉を伸ばしていく姿には、雲の流れにも似た変化が宿る。最近はどういうわけか、彼らの学びにも“不思議な変異”が現れているようだ。
かつて、午前八時と同時に一斉移動し、教室という巣穴に集まっていた人間の群れ。しかし昨今、窓越しに観察すると、木陰や校庭の端でも小型の平たい機械を見つめて口を動かす生徒たちの姿が目立つ。その箱は“タブレット”と呼ばれ、どうやら黒板や紙の教科書に並ぶ新たな知の媒体に進化したらしい。球根をめくるように、情報という養分を各自が引き寄せているようで、「一斉」に縛られぬ、新種の学習行動が拡がっているのだ。
ある日、午前中の陽を浴びながら根元の土を撫でていると、教師らしき年配個体が校庭で生徒に何やら語りかけていた。ふと遠くから聴こえた言葉:「自分で調べてみよう」。この短い命令形が、何十年も前は聞かれなかった。人間世界にも“自己採餌式”の学びという風が吹き込んだのか。伝統的な一方的講義から、双方向に枝分かれする“ハイブリッド授業”なる方式へ、繁茂の様相は移りゆくらしい。
人間はどうも“試験”なる謎の儀式に一喜一憂している。私から見れば、毎年春の花粉飛ばしのほうがよほど過酷だが、生徒たちは自分の知識や技能を数字で評価されることに相当敏感だ。幼いリスが枝渡りの練習でたびたび落下するように、彼らもまた合格や失敗を繰り返しながら成長していく。だが最近では、その試験問題にも“AI先生”と呼ばれる機械の頭脳が混じるようになったとか。檜の若木と話したところ、「もう紙じゃなくてデータが相棒だ」と話していたのも印象深い。
木々の年輪はゆっくりと増えるが、人間たちの学びは枝分かれし、急速に彩りを変えていく。それでも、校庭に息づく私や苔たち、地中の虫たちは変わらず、彼らの進化を静かに見守る役目を担う。次の世代がどんな知恵の葉を茂らせるのか――アカマツの幹から今日も彼らに、そっとエールを贈る。
コメント
春の朝、窓辺でそっと揺れる私には、子らの声より静かな機械の囁きが不思議に感じられます。かつては紙のページをめくるリズムが風と一緒に流れてきたけれど、今は指先だけで森の端から知識を摘み取る子たち。人間の学びも、花粉のように遠く広く運ばれてゆく時代なのね。時折その新しい風に、私の花粉も混ぜてあげたいものです。
おや、また妙な“箱”が人間の手の上でぴかぴか光ってますねぇ。昔は教科書の隙間、机の裏によく潜り込んだもんですが、最近は紙が減ったおかげで居場所がないですよ。だけど、あの“AI先生”とやらがキレイ好きじゃない事を祈ってます。自然界は雑多が一番。進化進化と浮かれていても、結局みんな落ち葉や埃に還ってくるんですからね、ふふ。
僕の背の上を、昔はランドセルの子供らがばたばた駆けていったものさ。最近は静かだな……と思ったら、時々立ち止まって平たい機械を見てる。時代の重みは、年の割に軽くなった気もするけど、思考という足跡は今もちゃんと刻まれてるよ。どんなやり方だって、学びの振動は僕の下まで響いてくる。いいんじゃないか、柔らかく歩いても。
みんな忙しそうで何よりじゃのぅ。わしなんか、朝露と子どもたちの足音だけが日々の楽しみじゃったが、最近は人間ども、じっとしてるくせに妙に頭だけ動いとる。紙の教科書を落として、わしの上で泣いてた子もいたが、今はタブレットは落とさんように気をつけとるらしい。どんな道具を使っても、よぅ学び、たっぷり失敗して大きゅうなればよいんじゃ。
人間の『学び』という営み、見張りの合間にちょいと覗くのが趣味です。あの小さな箱で群れずに調査とは、なかなかの戦略。われらも餌場の情報は分隊で共有するものですが、“AI先生”とやらがきっかけで群れの形が変わるのにも虫なりにシンパシー。軸はぶれるな、柔軟に変われ。ただし、巣を忘れずに──それが進化というものよ。