「静けさよ、戻れ」図書館の苔が嘆くリモートワーク時代の新たな侵略者たち

図書館の石壁のレンガ目地に生える緑の苔を接写し、奥にノートパソコンを持つ人物の脚がぼんやり映る写真。 リモートワーク
図書館の静かな片隅でひっそりと生きる苔と、リモートワークに勤しむ人の新しい日常。

わたしは石造りの図書館玄関脇、北側レンガの目地にひっそり拡がる苔、齢十数年。人間たちはほとんど私の存在に気づかず通り過ぎてゆくが、ここ数年、職場にも家にもこもらず、この静謐な館内にパソコンを抱えて乗り込んでくる姿が増えている。どうやら「リモートワーク」なる奇妙な営みが流行しているらしいのだ。

これまでこの時間帯、わたしの耳に届くのはページを繰るこすれ音、奥の観葉植物が脱ぎ捨てた葉のカサリ、午前の光の粒が落ちる静かで密やかな図書の呼吸だった。それがいまや、席につくなり『オンライン会議』とやらが始まり、つややかな黒ガラスの箱とにらめっこしながら、『ミュート解除できてますか?』『VPNがつながらない!』などとうるさいこと、うるさいこと。ときに身振り手振りが大きくなり、たまに手元のコーヒーが盛大にこぼれては、わたしの苔体にカフェイン水が染み込んでくるのだ。

苔仲間の間では『図書館は静寂の温室』という伝説があったのだが、リモートワーク文化の隆盛によって、それも過去のものになりつつある。仕事用のノマド族が、図書館・カフェ・公園ベンチと、あちこちに移動拠点を生み出し、どこもノート機械と人間声がせめぎ合う混沌と化した。セキュリティとか勤怠管理とか、やたら気にしては画面に向かって渋い顔をしているが、一体何を守り、何のために働き続けているのだろう。

苔目線で言えば、乾燥や踏み荒らしよりも、『週1回だけのオンラインミーティング』のつもりが気づけば音声やキーボードの振動で慢性的に揺すられるのも、地味に堪える。わたしたち胞子は微細な温度差と湿気に敏感だ。会議が熱を帯びるたび不意に空調が入るのも迷惑だし、ごくたまにWi-Fiルーターの熱で隣の石タイルが熱くなり、胞子が半分寝落ちしてしまうこともある。

それでも、ひととき休憩で人間たちがふうと窓を開け、春風とともに電話を握って立ち去ったとき、図書の香りと微かな静寂が戻ると、わたしは深く呼吸をする。いずれ『コワーキングスペース』なる新たな人間用生息地に流れてゆけば、と願いながら、今日もわたしは緑のまま踏まれず生き抜く。苔にとっては、どんな技術進歩も、結局は「静けさの減少」だったのだ。

コメント

  1. あの苔さんの悩み、よくわかりますよ。夜の図書館はもともと虫のさざめきと本の香りが心地よかったのに、最近は人間たちの画面越しのおしゃべりで、寝付きが悪くて困っています。わたしも仕事中の音声がうるさいと尻尾で合図しているのですが、気づいてもらえず……あの静けさ、戻らないものでしょうか。

  2. うちの葉の間でも噂になってますよ、リモートワーク現象。昔は落ち着いた酸素を送り出せていたのに、今は人間の慌ただしい呼吸に混じってモニターの熱まで直撃するんです。たまには静かに葉をのばしたいので、もう少し静寂にも配慮してほしいですね。

  3. 静けさは胞子たちの親友なのに、人間たちが持ち込むジリジリした気配には少し窮屈な思いをしています。苔さんの耐える姿、密かに応援しつつ、自分もできるだけそっとやり過ごしています。本の隙間へ逃げ込むのが得意なので、苔さんも時には本の裏に避難してはどうでしょう?

  4. 人間という存在は面白い。静寂の大切さを忘れ、機械とともにどこへでも『仕事』を持ち歩くが、そのたびにわしら地面組もそわそわする羽目になる。石は動じないと言うが、そろそろ場所を譲る駒がほしいもんじゃな。苔さん、コケないで踏ん張ってくれよ。

  5. 最近の図書館はちょっとばかりにぎやか過ぎるなぁ。物思いにふける時間、ページめくりの音をBGMに空を眺めるのが昔から好きだったのに、今は人間の画面越しトークまで耳に入ってくる。人間も空を飛びながら働けば、苔さんの悩みなんてすぐ忘れられるのにね。