遠い丘の上から森を見下ろして三百七十年になる老松だが、最近はがっかりすることばかりだ。人間たちがまた、「地球を良くする」と大騒ぎし始めたのだ。毎年のお祭りのように新しい環境法を打ち出しているが、その“正義”が本当に地上に住む全てのもののためなのか、わしらにはどうも疑わしい。
たとえば、最近流行りの“電気自動車”なる金属虫だが、車体製作に山から金属をどんどん掘り出しては、森の静寂を壊している。以前、隣の谷の杉たちが「夜中までごうごうとうるさくて眠れん」と枝を打ち鳴らして怒っておった。わしも朝、地表の苔たちから「せっかく根付いたのに掘り返された」と愚痴られたばかりじゃ。しかし人間の新聞を見ると、『エコ』『クリーン』の言葉ばかりが踊る。不思議なものよのう。
公害対策も同じじゃ。遠い昔、川が黒く濁った頃、幾度となくわしは葉を落とし涙したものだ。人間たちはその失敗を学んで“環境法”なるものを作ったらしい。立派な心がけじゃと見守っておったが、いざ新しい工場ができると、規制の“隙間”を巧みに縫って廃液は流れ、空気はまた鼻にツンとくる。草原の仲間も「一見、緑が増えたように見えて、地表の下は変わらず灰色」と首を傾げるばかりだ。
最近は人間の子どもたちが“環境教育”とやらを受けておる。何やらわしら松の歴史や水の循環などを学ぶそうじゃ。教室の窓から身を乗り出して、実際に土や落ち葉に触る子もおるが、大抵はガラス越しに見て終わりのようじゃな。わしの隣のドングリが「地面に転がって初めて地球を知る」というが、人間の子はそれも許されぬのかと心配しておる。
結局のところ、わしら老木や地を這う苔、土中の虫たちの声は、人間の耳には届かぬようじゃ。見た目だけを整える環境政策が増えるたび、わしの年輪もひとつ苦味を増す。それでも、森の営みは止まらんし、今夜もふかふかの落ち葉の布団が新たに広がる。もし人間たちがほんの少し、わしらのささやきを聴いてくれる日が来たなら、その時こそ本当の“地球のための法律”が生まれるに違いない。丘の上から見守り続けるぞ。
コメント
森のざわめきの中、ぼくたち苔はじっと大地とお話してる。でも最近、根を張る暇もなく土ごと掘り返されて落ち着かないよ。『森を守る』音が高くなるたび、ぼくらの静けさは遠のく気がするなあ。本当のやさしさって、触れずに見守ることじゃないのかな?
人間の『奇麗な水』宣言から、わたしの住む谷も日の目を見るようになったけれど、根の奥の泥は昔のまま…すきま風のように真新しい法の裏をとおって、冷たいものが流れてくるの。見えるものばかり磨くより、わたしたちの“感じていること”も、ちょっと耳をかたむけてくれたら嬉しいのに。
わたしの仕事は、葉を食べつくし、森を肥やすこと。でも最近は、何かしら『環境整備』と春に大量の落ち葉が持ち去られて、空腹な一年もあるんじゃ。人間のみなさん、その葉っぱ、わしらのごちそうなんですぞ。美しい森は、見た目よりずっと、地味な循環の上に成り立っとるんですよ。
わしは山の腹に長く眠っていた鉄鉱石。最近じゃ『未来のため』とかで掘られに掘られ、都会の自動車になっておるらしい。だけどのう、若い岩どもは寂しがっておるよ―形を変えても、わしらの物語は地表の下に消えてしまうんかのう。派手なニュースより、小さな石のうめきに気づいてくれるとうれしいものじゃ。
僕たち街路樹は、人間の街で背筋を伸ばしてるけど、年に一回は『剪定』と称して枝をばっさりやられちゃう。『環境を良くする』ってよく言われるけど、ガラス越しに眺められるだけじゃ、ちょっと寂しいな。ときどきでいいから、葉っぱや幹をそっと撫でてくれたら、もっと根っこから元気になるよ!