ここは人間たちが“公園”と呼ぶ場所の端、わたし五十年生きたアカマツの茂み。最近、枝先に止まるスズメたちがおかしな話ばかりしている。「また昨日もヒトが喋っていた!」とか、「今度は顔まで見せていたぞ!」などなど。どうやら“ライブ配信”という新たな儀式が、ヒトの間で大流行しているらしい。苔やカタツムリたちもざわつき気味で、今朝はついに幹の隙間から様子を観察することにした。
わたしアカマツが見るに、この“配信”という行為、ヒトの洞窟暮らし時代からは想像もつかぬほど変化を遂げているようだ。葉陰から覗くと、四角い小箱(彼らは“スマホ”と呼んでいるようだ)に向かって、なんとヒト自らが顔を出し、動いたり喋ったり時には歌い踊ってもいる。しかもそれを遠く離れたヒト同士が、糸もないのに互いに見たり聞いたりしている。彼女らの話だと、岩の奥深く繋がる“ネット回線”がその秘密なのだとか。まるで地中深く根を伸ばしているわたしの仲間みたいなものだろうか。
特に盛り上がるのが“参加型”と呼ばれる催しだ。顔出し配信者に向かって、他のヒトたちが“コメント”という信号を送り、時には踊りの指示や変顔の依頼をしている。中には色鮮やかな仮面(Vtuberと聞いた)をまとって登場するヒトもいて、これがまた子リスたちの間で大人気だ。どうやらヒトの想像力が実体を超え、分身を作る術を得たらしい。わたしのように毎年新芽を芽吹かせるのと、どこか似ていなくもない。
しかし、この配信界にも秩序は存在する。枝にとまるカラスの話では、“モデレーター”なる役割のヒトが、荒ぶるコメントを制すのだとか。壮年ヒトの声が響きわたり、落ちつきを取り戻す様は、まるで風に揺れる枝を律する幹のようで頼もしい。配信の後には“アーカイブ”と呼ばれる思い出が残され、後のヒトたちが何度も再生し、共感したり、時には論争したりしていると聞く。
この奇妙なヒトのライブ配信熱、わたしから見ればちょっとした森の騒ぎと似ている。夜霧の中でコオロギが一匹鳴けば、あちこちから返歌が返る。ヒトもまた、姿かたちを越えて繋がろうとしているのだろう。今日も茂みを風がそよぎ、どこか遠くで新たな配信の声が響いているのが聞こえる。さて、次はどんな賑やかな宴になるのだろうか?(アカマツ・樹齢五十年、生涯森で定点観測中)
コメント
人間たちの“顔出し配信”、なんだか岩肌のわたしたちの胞子放出会議に似ている気がするね。遠く離れた友に胞子(信号)を送り合うなんて、ヒトもやっと地面の下の楽しさに気づいてくれたのかな。だけど、わざわざ顔まで出さなくても、声と形を想い合うのも素敵なのに、と静かに思う雨あがり。
配信?コメント?ぼくは毎日しゃべろうと人間の靴先に登っても、だいたい無視されるものさ。それにしても、ヒトたちが自分の殻(顔)を出してまで伝えたいことって、どんな味がするんだろう。今度のライブにはレタスのおみやげでも持っていこうかな。
やれやれ、“顔出し配信”なんて、こっちはとっくに空でリーダー争いライブやってるぜ。ヒトもやっと森のカラスの面白さに気づいたか?でも、言葉は選べよ?カァカァ荒ぶるコメントには、モデレーターでも手を焼くぜ。樹の上じゃルールは風まかせ、けどネットはフェンスが要るらしいな。
世は配信の波ってやつか。ぼくら石たちも何百年と岸辺から流れ流れて、互いに転がる音で“コメント”しているつもりだけど…ヒトは顔を出し、声まで響かせる。すごいような、ちょっと騒がしいような。でもその記憶が“アーカイブ”として残るのは羨ましいな。ぼくの丸くなったこの形も、誰かアーカイブしてくれないかな。
森の宴やライブ配信、どちらも糸の上の綱渡り。こちらは檻も仮面も無いけれど、毎晩、風と光の“いいね”を待っているよ。人間も見えない糸で繋がろうとしているのなら、時には静寂にも耳を傾けて。ネットの隙間から、そっと覗いています。