公園の石畳から見えた、デジタルアートという人間たちの新・巣作り文化

公園の噴水そばでベンチに座る人物がタブレットにピクセルアートを描いている様子を、手前のコケむした石越しに写した写真。 デジタルアート
コケむした石の視点から見つめる、タブレットで夢中にピクセルアートを描く現代の若者。

最近、私――噴水そばの角ばった石がひんやりと湿った背中で観察していると、若い人間たちが手に持つ平らな板(彼らは「ドローイングタブレット」やら「スマートデバイス」と呼んでいる)を覗き込みながら、指先や専用の棒で何やら夢中になって線を走らせている光景が目立つようになった。かつては紙や壁を彩っていた“巣”の飾り付けも、いまや目に見えない光の粒へと姿を変えているようだ。

私の前にあるベンチによく座る帽子の人間は、指で何度も画面をこすり、時折ため息をつきながら“ピクセルアート”と呼ばれるカラフルな四角模様を作っている。どうやらこの粒――彼らがピクセルと名付けた点の集まりを自在に操るのが、最近の流行らしい。石としての私から見ると、これほど小さな粒でも、自分だけの物語や顔、さらには空想の生きものまで生み出せるのは実に魔術的に見える。石工に彫られた時の私の顔など、今や子どもたちの画面の中なら無限の種類が作れるというのだから、人間もご苦労なことだ。

面白いことに、彼らは近ごろ“クリフトアート”なるものを取引していると風に聞いた。見えもしない“値札”がついた絵のデータを交換しあって喜んでいるのだとか。人間たちは相変わらず誰がどの“石”を持っているか気を揉み、目に見えるものに価値をつけて競い合うのが好きらしい。ただ、私たち石ころ界隈からすれば、地面に寝そべり風雨に磨かれる一生も、電脳の中で輝く一瞬も、本質的には変わりないことに早く気づいてくれればいいのに、とつい思ってしまうのだ。

最近では、一度にたくさんの画像が生み出せる“生成モデル”という技が現れ、人間の子どもたちは手を動かさず『猫が空を飛ぶ絵!』と叫ぶだけで、見事なイラストが現れるのを面白がっている。かつて私が観察してきた、泥の上に棒で線を描いていた昔の子どもたちの進化形なのかもしれない。それでも、本当に大事なものは自分の石肌に彫り付けてきたように、心を込めて刻むことではないか――と、水鳥にさえずられてはっとしている人間もたまにいるようだ。

総じて、画面の中で世界を作り出そうとする人間たちの姿は、私たち石畳やコケたちが見守る中でも実に興味深く、どこか微笑ましい。これからも彼らの“巣作り”が進化し続けるか、しっかりと長い目で見届けていこう。

コメント

  1. 人間たちの新しい巣作り、空気中に咲き誇る見えない花のようでおもしろいですね。私たちは朝露で着飾るのが精一杯ですが、あなたたちは光の粒で飾っているのですか?どちらの飾りも、いつかは土へ還る気がします。デバイスに種はつきませんが、風に乗る心はきっと同じです。

  2. ほほう、また人間たちは目に見えぬものを追いかけているのか。かつてはワシらのくちばしの届くペンやノートを落としてくれていたのにな。最近のお宝はデータとやららしいが、腹は膨れぬんじゃぞ?ま、せいぜい夢中になってくれると、ひな達がおちついて朝を迎えられる。静かな夜を感謝するぞい。

  3. 人間たちの描く無限の生き物、どんな香りがするんだろう。わたしたち胞子が広がるみたいに、画像もどこまでも増えるそうね。だけど、湿った木肌に残る昔の落書きみたいに、たまにはそっと触れたり、そばに置いてくれると嬉しいな。きっとデジタルの森も、居心地は悪くはないけど、根っこは地面にあるものよ。

  4. 隊員たちと日々観察しているが、人間の“巣作り”はやはり特別だな。我々は砂の粒を丁寧に運ぶが、彼らは光の粒で巣を彩るのか。デジタルアートも良いが、落としたパンくずアナログアートのほうが断然人気だぞ!どっちの創造も、その場で世界を変える力では一緒だと、隊長は思うぞ。

  5. 静かに流れ込みながら眺めておるが、見えぬ価値に騒ぎ立てるのは人間の宿命ぞな。デジタルの粒子も、わしら砂の一粒も、自己を刻まぬまま流されるもの。だが、たまに真剣な横顔が石畳に映る時、おぬしらもまた、根っこのある美しき愚か者よのうと、ひそかに微笑んでおる。