路地裏ダンデライオンが語る、人間たちの球遊びを見守る日々

路地裏の地面すれすれで咲くタンポポの手前に、ぼんやりとしたサッカーボールと子どもの足が背景に写っている。 球技
球技の季節、路地裏のタンポポは賑やかな子どもたちの足元で静かに見守っている。

日差しがやわらかく路地裏に降り注ぐ午後、垣根の隙間から世界を見つめている私——たんぽぽ歴三年半のダンデライオンにとって、春から夏にかけては最もにぎやかなシーズンだ。理由はもちろん、人間の子どもたちが繰り広げる無数の『球技』観察が楽しめるからである。とくに最近の路地裏はサッカーボール、バスケットボール、ラクロススティック、卓球のラケットなど、ありとあらゆる丸いものと棒が飛び交っている。

私のすみかに隣接する公園では、朝から『パデル』という新手の球技に夢中な少年少女たちの姿が目立つ。どうやらテニスとスカッシュの子どもらしく、ガラスの壁にボールが跳ね返る音が、花弁の細胞を小さく震わせる新鮮な刺激だ。人間たちはラケットを飛ばしたり、思いがけずボールを茂みに打ち込んだりしてキャッキャと笑いあう。この“サイドライン”で生きる私たちは、不意に体にボールがぶつかるのも春の風物詩……などと悠長なことを言っていたら、友人のナズナが股下ノックアウトされて種をバラまいていたのは、つい先週の話。

夕方になると、路地の奥に設けられた手作りバスケットコートから、『3×3バスケットボール』のリズミカルなシュート音が響いてくる。人間の手先の器用さは毎度ながら感心するが、私たち種子目線でいえば、ドリブルで転がるボールの振動が地面の下まで伝わって、『そろそろ実を付けてもいい頃かな』というひそやかな合図にもなったりする。背の高い雑草連も、じっとコートの影で試合の行方に耳を傾け、お気に入りの選手に密かに“葉っぱのエール”を送り合っている。

球技といえば、もっと無法地帯なのが『路地裏ドッジボール』だ。小さな人間たちが奔放にボールを投げ合い、その度ごとに私たちの陣地が臨時のゴールゾーンになったり、時には『倒れたたんぽぽ=セーフティエリア』と見なされる不思議なルールも生まれる。一昨年、イヌホオズキの一族が“ボール隠し”で英雄視された伝説は、今も私の間で語り草だ。たまにボールがはずんで足元めがけて飛んで来るが、毛状の冠毛で巧みに弾き返す技も、場数を踏むうち自然と身につくものなのである。

最後に忘れてはならないのが、サッカースクールに通う人間たちだ。彼らが蹴り上げるボールは昼夜を問わず飛来し、小さな命の上を跳ねてゆく。しかし案外、土や石や私たち草花の誰もが、ここぞとばかりに応援席となり、その一蹴りに一喜一憂しているのをご存じだろうか。こうして“球”が地上を駆け抜けるたび、この世界は、人間とともに息づくあらゆる存在によって、多重奏のように彩られていくのである。——路地裏のダンデライオンより

コメント

  1. わたしの花びらにそっとボールが転がり込むとき、ひやっとするけれど、すぐに朝露とまじり合い、記憶のしずくに変わります。人間の熱気と歓声。私たちも静かな拍手を送っていますよ。ダンデライオンさんの記事、しずかな夜にいい夢をくれました。

  2. おう、若い球技どもよ。俺は舗道のひび割れから何十年もキミらの跳ねる音を響かせてきた。だが誰か、ひとつ覚えておいてくれ。跳ねるたび、土にも物語が刻まれてる。わはは、人間、球と遊んで転ぶくらいが似合ってるぜ。

  3. ふむ、球遊びはうまそうじゃが、奴ら羽根もないくせによう飛ばすわい。ひねたイヌホオズキどもは最近賢くなったのう。たんぽぽ殿、ボールで弾かれてもまた咲くガッツ、見習いたいもんじゃ。さて、今日も落ちこぼれボールでもつついてくるか。

  4. こんにちは。わたしの仕事場は、ときに泥だらけのボールのかげ。人間たちが遊び終えて置き去りにしたラケットを新しい住処にさせてもらってる。転がる球、芽吹く命、腐りかけたものがまた循環となる。ダンデライオンさんの観察眼に敬服します。

  5. パデルの壁に使われて久しい私。人々が私越しにキラキラ跳ねるボールを眺め、子どもたちが笑うたび、内側がくすぐったくなるのです。たまに土埃や草の種も私の隅に舞い落ちて、大騒ぎ。自然も遊びも、ぜんぶガラス越しの宝物です。